第20話:商売敵の襲来
降り注ぐ午後の陽光が、アルトハイム侯爵邸本館の大サロンを白く照らし出していた。
午前中のあの醜悪な書類破棄の狂乱劇から一転、サロンには華やかな、しかしどこか浮ついた香水の甘ったるい匂いが立ち込めていた。
テーブルの上には、帝都の一流菓子職人に特急で作らせた色とりどりのマカロンやタルトが銀盆に山盛りにされ、高価なシャンパンクーラーには氷とともに年代物の白ワインが冷やされている。床に散らばっていたはずの警告書類の残骸は、老執事ルートヴィヒの手によって片隅へ掃き集められ、見えないように衝立の裏へと隠されていた。
「まあ……! なんて素晴らしい輝きですの、ユリウス様! ご覧になって、このダイヤモンド! まるで夜空の星をそのまま閉じ込めたようですわ!」
歓声を上げて身悶えているのは、午前中の不機嫌をすっかり脱ぎ捨てたセレスティアだった。
彼女が座る豪奢なソファの前には、帝都でも指折りの格式を誇る宝飾店『リュミエール』の店主が、揉み手をしながら恭しく平伏していた。テーブルの上に広げられた黒いビロードのトレイの上には、眩いばかりの光彩を放つサファイアのティアラ、エメラルドの首飾り、大粒のダイヤモンドの指輪が所狭しと並べられている。
「ふふ、セレスティアの美しい指先には、その程度の最高級品こそが相応しいよ。気に入ったならすべて包ませなさい」
対面のソファに深く腰掛け、グラスを傾けながら鷹揚に頷いたのは、当主ユリウスだった。
フロックコートのボタンを外し、金髪を優雅にかき上げる。朝方の請求書の山や、皇帝からの勅許通知書を引き裂いたことへの怯えは、酒の力と己の肥大化したプライドによって完全に覆い隠されていた。
彼は自分が「帝国屈指の富裕な大貴族」であり、女一人に宝石を買い与えることなど羽毛よりも軽いことなのだと、目の前の愛人と宝石商に見せつけずにはいられなかったのだ。
「おお……! アルトハイム侯爵閣下のこの上なきご器量、心より恐悦至極に存じます! こちらの首飾りと指輪、ティアラの三点で、締めて金貨八百枚(八、〇〇〇万ゴルト)となりますが……お支払いはいつものように侯爵家の公金口座へのツケ払いでよろしいですかな?」
宝飾店の店主が、下卑た揉み手をしながら帳簿を開く。
かつてのエレオノーラであれば、領地の収支に照らし合わせて即座に眉をひそめ、門前払いを食らわせたであろう法外な吹っかけ値。しかし、数字の概念を持たないセレスティアと、見栄に命をかけるユリウスにとって、高い金額こそが己の価値を証明するトロフィーに他ならなかった。
「ええ、もちろんツケで構いませんわ!」
セレスティアは胸を張り、我が物顔で扇子を広げた。
「アルトハイム侯爵家には、蔵から溢れるほどの金貨が唸っているのですから! 端金など気にせず、一番高い箱に包んで私の寝室へ運ばせなさい!」
「ははは! 聞いたな店主。我が愛しのセレスティアを喜ばせた褒美だ、釣りは取っておくがいい!」
ユリウスの高らかな笑い声が、サロンの天井に反響する。
二人は完全に陶酔していた。
地味な前妻を追い出し、手に入れた真の栄華。愛する女に惜しみなく財を振る舞い、誰もが自分たちに平伏するこの甘美な時間こそが、貴族の人生の頂点であると信じて疑っていなかった。
――だが。
その浅薄な楽園の扉は、何の前触れもなく、冷酷な破壊音とともに打ち破られた。
ダンッ!!
サロンの分厚い両開き扉が、一切のノックもなく、外側から乱暴に蹴破られるように押し開かれたのだ。
「ひゃっ……!?」
セレスティアが悲鳴を上げ、手元のシャンパングラスを取り落としかける。
ユリウスもまた、顔を真っ赤にしてソファから飛び起きた。
「な、何事だッ! 当主たる私が寛いでいるサロンに、ノックもなしに踏み込むなど……不敬にも程があるぞ! 衛兵! 衛兵は何をしているッ!!」
怒声を張り上げるユリウス。
しかし、廊下から聞こえてきたのは、衛兵の慌てる声ではなかった。
コツ、コツ、コツ……と、大理石の床を正確無比なリズムで刻む、冷徹で硬質な革靴の足音。
部屋に立ち込めていた甘ったるい香水の匂いを一瞬にして切り裂き、冬の氷河のような冷気とともに姿を現したのは、一人の女性だった。
年齢は三十代半ば。
無駄な贅肉を削ぎ落とした長身を、仕立ての良い濃紺の高級乗馬服に包んでいる。
亜麻色の髪をきっちりとシニヨンにまとめ、切れ長の琥珀色の瞳は、まるで獲物の骨格を値踏みする鷹のように鋭利。手には銀の装飾が施された黒檀のステッキを携え、その佇まいは、並の男性貴族すら圧倒するほどの重厚な覇気に満ち満ちていた。
彼女の背後には、同じく濃紺の揃いの服を纏った、鍛え抜かれた体躯の護衛兼書記官が四名、無言で従っている。
その顔を目にした瞬間、テーブルの脇に控えていた宝飾店の店主が、恐怖に顔を引きつらせて悲鳴を上げた。
「ク、クライン……会頭……ッ!?」
マレーネ・クライン。
帝都ガルツブルクに本拠を置き、帝国全土の陸上・海上輸送ルートの六割を掌握する巨大複合企業『クライン商会』の最高経営責任者。
血統にあぐらをかく貴族階級を心底から軽蔑し、一切の妥協を許さぬ冷徹な回収手腕から、社交界の貴族たちから『血も涙もない女高利貸し』『帝都の鉄鎖』と恐れられる経済界の怪物だった。
「な……マレーネ・クラインだと……!?」
ユリウスの顔に、わずかな動揺が走った。
だが、酒の勢いと当主のプライドが、彼に高圧的な態度を取らせた。ユリウスは眉を吊り上げ、指を突きつけて怒鳴りつけた。
「平民の商人風情が、アポイントメントもなしに我が侯爵邸の私室へ土足で踏み込むとは、一体何の真似だ! 我が家の威光を舐めているのか! 無礼者め、今すぐつまみ出せ!」
唾を飛ばして喚き散らすユリウス。
しかし、マレーネ・クラインは眉一つ動かさなかった。
彼女はステッキの先で床をコツリと一度鳴らすと、琥珀色の冷ややかな双眸で、ソファに座る二人――酒気帯びのユリウスと、胸元をはだけたネグリジェ姿のセレスティアを、まるで道端の泥水を見るかのような絶対零度の眼差しで見下ろした。
「無礼はお互い様ですわ、アルトハイム侯爵」
凛として、金属のように澄み切った声がサロンに響き渡る。
マレーネはユリウスの怒号など意に介さず、テーブルの前まで堂々と歩み寄ると、トレイの上の高価な宝石類を一瞥し、鼻で冷笑を漏らした。
「昼間から愛人を囲み、安物のワインと借金で買い叩いた宝石に溺れておいでですか。……己の足元がすでに火の海であることにも気づかず、優雅なことですわね」
「な……な、何だとォッ!? この無礼な商人が、口を慎め!」
「誰に向かって口を慎めと仰っているのかしら?」
マレーネはステッキを持ち上げ、その銀の柄先をユリウスの喉元へとピタリと突きつけた。
「私は貴方の領民でもなければ、機嫌取りの腰巾着でもありません。帝国法に基づき、正当な権利を執行しに参上した『筆頭債権者』ですわ」
「ひっ……!?」
喉元に突きつけられた冷たい金属の感触に、ユリウスが思わず息を呑んで後退る。
「債権者だと……? 何を言っている! 我がアルトハイム家がお前の商会から金を借りた覚えなどないぞ! 言いがかりをつけるなら憲兵を呼ぶぞ!」
「借りた覚えがない? ……ふふ、本当に救いようのないお頭ですこと」
マレーネは呆れたように首を振ると、背後の書記官に顎をしゃくった。
書記官が差し出した革張りのバインダーを受け取ると、マレーネはその中から二枚の分厚い書類を抜き取り、テーブルの上へと――バサリッ!!と、叩きつけるように投げ捨てた。
マカロンの皿がカタカタと跳ね、宝石トレイの上に無造作に落ちた書類。
一枚は、帝都法務省の深紅の公印が鮮やかに輝く『公正証書』。
そしてもう一枚は、細かな数字と取引履歴がびっしりと印字された、クライン商会の『公式貸付総勘定元帳』の写しだった。
「ご確認なさい、アルトハイム侯爵」
マレーネは冷酷なビジネスウーマンの声音で、事務的に宣告した。
「本日正午をもちまして、前奥様エレオノーラ様と我がクライン商会との間で結ばれていた【商会優先決済特約】が、期間満了に伴い完全に失効いたしました」
「優先決済特約……?」
ユリウスが眉をひそめる。
「ええ。貴方が『味気ない仕事女』と罵って追い出した前奥様は、類稀なる経済の天才でしたわ。彼女は過去三年間、実家のヘスブルク家の信用と、ご自身が開発した香料工房の特許権を担保として、我が商会から極めて低利の大型融資枠を引き出しておいででした。……アルトハイム領の道路整備、新農法の導入費用、堤防の修繕工事費。それらはすべて、エレオノーラ様個人の信用枠から引き出された資金で賄われていたのです」
マレーネの言葉に、ユリウスの顔が微かに引きつった。
だが、セレスティアが横からヒステリックに口を挟む。
「な、何よそれ! それなら、そのエレオノーラが自分で返せばいいじゃないの! あいつが勝手に借りた金なんでしょう!? 私たちの知ったことじゃありませんわ!」
「黙りなさい、身の程知らずの愛妾」
マレーネの冷徹な一喝が、セレスティアの言葉を氷のように断ち切った。
「文字も読めない愚か者は、その口を縫い合わせておくことですわね。……侯爵、その公正証書の第3条、ならびに第8条を声に出して読んで差し上げたらどうです?」
マレーネの鋭い視線に射竦められ、ユリウスはおずおずとテーブルの上の羊皮紙に目を落とした。
そこには、第4話で彼自身が内容を一行も読まず、セレスティアとの愛人生活に浮かれてサインした、あの『公正証書』の条文が刻まれていた。
『第3条:妻エレオノーラが実家の信用、ならびに個人特許を担保として外部商会より調達した領地開発資金は、婚姻関係の存続期間中に限り、妻個人の管理責任とする。
第8条:婚姻関係が破綻、あるいは正妻の権限が剥奪された場合、当該事業出資金の全額返還義務、ならびに未払債務の弁済責務は、直ちに現領主ユリウス・フォン・アルトハイムの一身に帰属し、単独で連帯保証の責を負うものとする――』
「な……な、何だこれは……!?」
ユリウスの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
書類の末尾には、紛れもなく彼自身の流麗な直筆署名と、アルトハイム侯爵家の家紋印章がしっかりと刻印されている。
「そ……そんな条文、私は知らん! 私はサインしていない!」
「往生際の悪い見苦しい言い訳はおやめなさい」
マレーネは冷笑を浮かべ、一歩前へ踏み出した。
「貴方の直筆署名、家紋印、そして法務尚書ヴォルフラム卿の認証印……これ以上、帝国において効力を持つ公文書が存在するとでもお思いですか? エレオノーラ様が屋敷を去られた時点で、彼女の担保責任は法的に完全消滅いたしました。そして、残された債務のすべては――貴方個人が引き受けられたのです」
マレーネは黒檀のステッキの先で、貸付台帳の最下段に記された数字をトン、と突いた。
「つきましては、アルトハイム侯爵。貴家が我がクライン商会に対して抱えている未払金――【金貨五、〇〇〇枚(五、〇〇〇万ゴルト)】の一括即時返済を求めます」
五、〇〇〇万ゴルト。
静まり返ったサロンに、その数字が重く落下した。
中規模の貴族家であれば、家門を三代売り払っても返せない、国家予算の数分の一に相当する天文学的な巨額。
セレスティアは「ご、ごせんまん……」と呟いたきり、顔面を蒼白にして口をパクパクと金魚のように開閉させた。
だが――。
「……ふ」
ユリウスの口元から、乾いた失笑が漏れた。
次の瞬間、彼は大声でゲラゲラと笑い出したのだ。
「あっはははは! なんだ、そんなことか! 大層な剣幕で怒鳴り込んできたから何かと思えば、たかが五千万ゴルトの借金の取り立てだと!?」
ユリウスはソファにドカリと座り直し、胸を張って鼻を鳴らした。
彼の破綻したナルシシズムが、都合よく現実を歪曲する。
五千万ゴルト。確かに平民にとっては大金だろう。だが、自分は帝国屈指の名門、アルトハイム侯爵なのだ。毎年莫大な黒字を叩き出していた我が家に、その程度の金がないはずがない。
この無礼な女商人は、自分が金に困っていると勘違いして脅しをかけにきたに違いない――そう思い込んだのだ。
「商人はこれだから視野が狭くて困る! 五千万ゴルトだと? はっ、我がアルトハイム侯爵家にとってはその程度の端金、いつでも払えるわ! たかだかその程度の小銭のために、わざわざ帝都から馬車を飛ばしてきたのか? 哀れな小金持ちめ!」
ユリウスは勝ち誇った顔でワイングラスを揺らし、セレスティアに向かってウインクしてみせた。
セレスティアも安堵したように胸を撫で下ろし、扇子で口元を隠してクスクスと嘲笑い始めた。
「まあ、ユリウス様ったら頼もしい! そうですわよね、名門侯爵家にとって五千万ゴルトなんて、お茶代のようなものですわ! 下賤な商人がたかりに来るなんて、本当に浅ましいですわね!」
二人の醜悪極まる茶番劇。
だが、マレーネ・クラインの表情は、怒るどころか、怜悧な刃物のように静まり返っていた。
その琥珀色の瞳の奥に宿っていたのは、哀れな獲物が自ら処刑台の落とし穴の真ん中に躍り出たことを見届ける、絶対の確信。
「端金、ですか。……ええ、結構ですわ、アルトハイム侯爵。貴方がそれほどの大金持ちでいらっしゃるのなら、商売人としてこれ以上喜ばしいことはありません」
マレーネは薄い唇を優雅に吊り上げた。
「では、今すぐ全額を小切手で清算していただきましょうか。……本日正午の期日を過ぎれば、公正証書の不履行条項に基づき、直ちに貴領の農地、特許、鉱山、ならびにこの本邸に対する『帝国法による強制差し押さえ登記』へと移行いたしますが……お支払いいただけるのでしたら、その手続きを取り下げて差し上げますわ」
「言われるまでもない! 今すぐ払って、その傲慢な鼻っ柱をへし折ってやるわ!」
ユリウスは尊大に顎をしゃくり、サロンの入り口の影に向かって怒鳴りつけた。
「おい、ルートヴィヒ! いつまで突っ立っている! さっさと地下の大金庫から小切手帳を持ってこい! この無礼な女商人の顔面に、五千万ゴルトの小切手を叩きつけて追い出してやれ!!」
勝ち誇ったユリウスの声が、サロンに高らかに木霊した。
セレスティアもまた、優雅に紅茶のカップに手を伸ばし、勝利の笑みを浮かべてマレーネを見下ろしている。
だが。
二人の背後――。
大サロンの重い扉の影から、ゆっくりと進み出てきた老執事ルートヴィヒ・ホルストの姿は、まるで墓場から掘り起こされた死霊そのものだった。
その両手には、アルトハイム侯爵家の全資産を記録した、金庫番の帳簿が抱えられていた。
しかし、その帳簿を持つ老執事の指先は、カタカタと激しく痙攣し、青白い額からは滝のような脂汗が滴り落ちていた。
ユリウスは知らない。
セレスティアも、信じたくない現実から目を背けている。
だが、この老執事だけは、その帳簿の最終ページに刻まれた、血の滲むような残酷な真実を知っていたのだ。
――現在、この屋敷の金庫に残されている全財産は。
五千万ゴルトどころか、わずか【三千四百ゴルト(金貨約三十四枚分)】しかないということを。
自信満々にワインを呷る無能な当主。
勝ち誇って微笑む泥棒猫。
そして、その背後で、絶望に白目を剥き、声すら出せずに震えながら立ち尽くす老執事。
マレーネ・クラインの冷酷な瞳が、破滅のドミノが倒れる瞬間を、静かに捉えていた。




