第8話「【ホラー】無人オフィスと、二重憑依の罠」
「本当に……何も覚えてらっしゃらないんですか……?」
「は、はい……。なんだか急に頭がボーッとして……。私、坂口さんに変なこと言ったり、迫ったりしませんでした……!?」
「あ、ハハハ! 全然大丈夫ですよ! ちょっとお酒が回って眠くなっちゃったみたいです!ハハ……」
パニックになる桜井さんを何とか適当な嘘でなだめすかした俺は、汗だくになりながら彼女のマンションを飛び出した。
(危なかった……! あのスマホのライト照射が効かなかったら、マジで魂を引っこ抜かれてたぞ……!)
安堵してポケットからスマホを取り出すと、画面を見た瞬間に俺の血の気が引いた。
――着信履歴:5件(東雲葵)
――LINE未読:5通(東雲葵)
『坂口さん! 今どこにいますか!?』
『会社に……昨日の落雷の時とは比べ物にならないヤバい気配が近づいてます!』
『会社の皆はもう避難しました!』
『でも、どうしよう……。私、逃げ遅れました……!』
『助けてください……!』
最後のメッセージは十分前。それ以降、更新が途絶えている。
(あいつ……桜井さんの体から抜けた黒いオーラ、やっぱり会社に向かってたのかよ!?)
「東雲さん……っ!!」
俺は一目散に走り出した。
新NISAの将来の資産形成? 査定? 今はそんなものどうだっていい。
俺を心配してくれて、あの怪しい整体院のメモをくれた大切な同期がオフィスで危機に晒されているのだ!
二十七歳社畜、ストレートネックを限界までシャキッと伸ばして街を爆走した。
「ハァ……ハァ……っ!」
息を切らしながら、俺はエレベーターを使わずに階段でオフィスのフロアへと駆け上がった。
重いドアを勢いよく開ける。
「東雲さん……!! 無事か――」
「あ、坂口さん。お疲れ様です。どうしたんですか、そんなに汗だくで?」
「……え?」
そこには、拍子抜けするほど「普通」の光景が広がっていた。
薄暗いオフィス。自分のデスクで静かにパソコンに向かっていた東雲さんが、パタパタと駆け寄ってくる。
ショートカットの髪を揺らし、いつもの爽やかな笑顔だ。怯えた様子も、何かに襲われた形跡も微塵もない。
「あ、あの……メッセージ、たくさん入ってたし、皆逃げたのに東雲さんが逃げ遅れたって……。だから、東雲さんが危ないんじゃないかって……」
「あぁ、LINEですか? すみません、なんかスマホの調子が悪くて、変な連投になっちゃってたみたいで。心配させちゃいました?」
「え、あ……そうだったんだ……。無事なら、よかった……」
会社の皆、本当に誰もいない……。
でも、そんなヤバい気配があったのに、なんで東雲さんは一人で落ち着いているんだ……?
「坂口さんが残していった仕事、もうすぐ終わりそうですよ。ちょっと手伝ってくれます?」
「あ……ああ! もちろん……」
俺はただならぬ気配を感じたが、東雲さんのオーラに気圧されるようにデスクに座り、キーボードを叩き始めた。不意に、東雲さんがコップを傾けながら、ふふっと小さく笑った。
「こうやってふたりで仕事するの、なんか久しぶりですね」
「そうだね。……東雲さんがいてくれて助かったよ。本当、感謝してる」
「もう、口だけなんですから。……あ、そうだ。坂口さんって、毎日新NISAの新説とか株の話ばかりしてますけど……」
東雲さんがキーボードを打つ手を止め、少し首をかしげて俺を覗き込んできた。
「そうやってコツコツ積み立てて……将来、なにに使うつもりなんですか?」
「え? なにって……」
不意を打たれた質問だった。
老後のため、老後の不安を消すため……そう答えるのがいつもの俺のパターンだ。
だけど、目の前で少し意悪そうに、でも愛おしそうに微笑む東雲さんを見ていたら、ふと、別の思いが脳裏をよぎった。
(もし……この積み立てたお金で、いつか東雲さんと一緒に美味しいものを食べたり、広い部屋に引っ越したり、幸せに暮らすための資金にできたら……なんてな)
二十七歳男のキモすぎる妄想だと自覚し、俺は顔が熱くなるのを隠すように咳払いをした。
「ま、まあ……将来、大事な人ができたら、その人と面白おかしく暮らすため……かな。なんちゃって」
「へぇ……。大事な人、ですか」
東雲さんは満足そうに微笑むと、デスクの引き出しから「コトン」と何かを取り出した。
「はいこれ。頑張っている坂口さんに、差し入れです」
「え……?」
目の前のデスクに置かれたのは――あの、怪しい海外製のエナジードリンクだった。
不気味な漢字が躍り、氷のように冷気を放つ、あの缶。
「東雲……さん……? これ……」
俺の全身の血が、スーッと引いていく。
喉が張り付き、声が出ない。東雲さんは、なぜそれを持っている?
固まる俺を見つめながら、東雲さんはゆっくりと首を傾げた。
その口元が、歪んだ笑みを形作る。
「どうしたの……? 飲まないの……?」
――ヒッ……!?
その声は、東雲さんの声ではなかった。
さっき、桜井さんの部屋でスマホのライトを照射された時に聞いた、あの地獄の底から響くような「女幽霊」と全く同じ声色だった。
「せっかく……あの人の魂を引きずり出すために用意したのに……。さあ、飲んで……?」
東雲さんの瞳から光が消え、底なしの暗闇が広がる。
背筋に凍りつくような激痛が走り、俺は金縛りに遭ったように動けなくなった。
(嘘だろ……!? 桜井さんから逃げた霊、東雲さんに乗り移ってたのかよ……!!)
東雲さんの手が冷たく俺の首筋に触れ、エナドリの缶が俺の唇へと押し付けられようとした、その時――!
バターンッッッ!!!!
オフィスの入口の扉が、激しい音を立てて力任せに蹴り開けられた!
「動くな!! 坂口くんに手を出すんじゃない!!」
荒い息とともに、廊下の明かりを背にして仁王立ちする人影。
その怒号が、静寂に包まれたオフィスに響き渡る。
「そんなことをしても……国広とは結ばれないぞ!!」
(また国広……!? てか、え? この声って……!?)
俺は凍りついた首を、死に物狂いで入口の方へと振り返らせた。
そこに立っていたのは、息を乱し、なりふり構わず駆けつけてきた――思いもよらない人物だった。




