第47話「【ラストバトル⑧】歪みなき光と、激闘の終結」
大手町グランドセントラルタワー21階。
吹き荒れる夜風の中、割れた窓枠のヘリに、爪の剥がれた青白い指が次々と突き立てられた。
ミシミシと軋みを上げ、異様な前屈みの姿勢をしたキョンシーたちが、窓の縁を乗り越えてフロアへと這い上がってくる。
一体、また一体。
濁った眼球をぎょろつかせ、濁流のようにチャペルの床へとなだれ込んでくる。
頭上では、引きちぎられた太い配管がのたうち回り、床のコンクリート片が弾丸のように飛び交っていた。
それらを辛うじて防いでいた『純愛のアルペジオ』の光のドームは、いまや無数の亀裂が走り、鋭い軋み音を立てて砕け散る寸前だった。
「グルルァッ!」
先頭のキョンシーが、涎を撒き散らしながら跳躍した。
バージンロードの絨毯に着地するなり、四つん這いの姿勢からバネのように跳ね上がり、防壁の薄皮一枚を爪先で引き裂かんと迫る。
「くっ……寿々木先生、ここで食い止めますよ!」
森田は血の滲む唇を噛み締め、痛む脇腹を片手で押さえながら、もう片方の掌に霊気を込めて構えた。
「ええ、ですが……私の腕も、もう上がりそうにありません……!」
寿々木も荒い息を吐き、震える両足を床に踏ん張る。二人とも全身に打撲と切り傷を負い、立っていることすら奇跡に近い状態だった。防壁のガラスが砕けるような硬質な音が鳴り響く。
ヒビが、一気に広がった。
(坂口さん……っ!)
(坂口くん……お願い、間に合って!)
東雲と桜井は固く手を取り合い、床に脱ぎ捨てられた坂口のスーツ――その胸元にある『純愛のアルペジオ』へ、二人の手のひらを重ねて強く押し当てた。
押し寄せる死の恐怖を押し殺し、ただひたすらに、あの心優しい青年の無事だけを祈り、念じる。
キィィィィン……ッ!
二人の熱い呼気に呼応するように、同人誌の表紙から目も眩むような純白の閃光が弾け飛んだ。
爆発的な光の波がチャペル全域を満たし、襲いかかろうと宙を舞っていたキョンシーたちが「ギャァッ!?」と両目を押さえて床に転がり、もがき苦しむ。
しかし――光の奔流は長くは続かなかった。
数秒と持たず、急速に輝きは色褪せ、煙のように薄れて消えていく。
「シャアアッ!」
視力を取り戻したキョンシーたちが、眼を血走らせ、再び獰猛な爪を振り上げて殺到してきた。
防壁は完全に消失していた。
目の前まで迫る黒い爪。剥き出しの牙。
森田が息を呑み、寿々木が身を挺して二人を庇おうと腕を広げた――その、まさに爪が肉を裂く寸前だった。
プツン。
世界から、すべての音が消え失せた。
まるで操り人形の糸を、頭上から大きな鋏で一斉に断ち切られたかのような唐突な脱力。
ドサッ、ドサササッ!
さっきまで喉を鳴らし、飛びかかろうとしていたキョンシーたちが、骨を抜かれたように膝から崩れ落ち、次々と大理石の床へ突っ伏していった。
宙を舞っていた配管や瓦礫も、すべての推進力を失って床へと重く落下し、転がり、止まる。
建物全体を揺らしていた禍々しい軋み音も、嘘のように消え去っていた。
「……え?」
東雲が掠れた声を漏らし、恐る恐る目を開けた。
「一体、なにが、どうなったの……?」
森田がよろめく足取りで窓際へ歩み寄り、冷たい外気に髪を揺らしながら眼下を見下ろした。
日比谷通りを埋め尽くしていた無数の黒い群れもまた、その場に折り重なるように倒れ伏し、穏やかな寝息を立て始めている。
「これは……まさか、坂口くんが国広を退治したの……!?」
「あぁ……なんか、そうみたいですね。いててて……」
背後から漏れ出た気の抜けた呻き声に、全員の肩が跳ね上がった。
非常階段の防火扉。煤けた鉄扉にぐったりと背中を預け、埃まみれのワイシャツの裾をはみ出させた俺が、腰を押さえながら立っていた。
「坂口さん……っ!」
東雲さんの瞳から大粒の涙が弾け飛んだ。パンプスを脱ぎ捨てるような勢いで床を蹴り、埃の舞う空間を一直線に駆け抜ける。
ドフッ、と鈍い音がチャペルに響いた。
「うぐっ……!? ちょ、東雲さ……っ!?」
「よかった……! よかったぁ……っ! もうダメかと……死んじゃったかと思ったんだから……!」
東雲さんは俺の胸板に顔を埋め、背中に両腕をきつく回して泣きじゃくった。俺は白目を剥きかけながら、ぎこちなく宙で手を泳がせる。
「い、いや……めちゃくちゃ嬉くて、嬉しすぎて天にも昇りそうですけど……! 階段十六階ダッシュの直後で全身の乳酸が爆発してまして……骨が、骨が軋んでます東雲さん……!」
「あ、ご、ごめんなさい……!」
東雲さんが慌てて腕を緩め、林檎のように頬を染めて半歩下がった。
だが、その隙間を縫うようにして、背後から別の影が滑り込んでくる。
「坂口さんっ!!」
桜井さんだった。
潤んだ大きな瞳をきらきらと輝かせ、東雲さんを押し退けるような角度で坂口の正面へ割り込むと、その両手をぎゅっと握りしめた。
「すごいです、本当にすごいです坂口さん! 私たちの本が……あの『純愛のアルペジオ』が本当にみんなを救ってくれたんですね! 何百年も怨みを溜め込んだ化け物を、たった一人でやっつけちゃうなんて……やっぱり、坂口さんは、すごすぎます! 私だけのヒーローです!」
握られた手に胸を押し当てる勢いで詰め寄る桜井さん。
その距離、わずか数センチ。
それを見た東雲さんの眉が、ピクリと跳ね上がった。涙で濡れていた瞳に、一瞬で冷ややかな炎が灯る。
スッと桜井さんの肩に手を置き、東雲さんが極上の笑顔を貼り付けた。
「あの、桜井さん? さっきから距離感がちょっとおかしくありませんか? 坂口さん、全身打撲で立っているのもやっとだって言ってますよね」
「え? でも東雲さんこそ、さっきタックルみたいに思いっきり飛びついて抱きついてましたよね?」
桜井さんは俺の手を離さないまま、小首をかしげて無邪気に応戦する。
「あれは無事を確認した勢いです! あなたみたいに、どさくさに紛れて胸を押し付けたりしてません!」
「失礼ですね! 私はただ、命の恩人に心からの敬意と感謝を身体いっぱいで伝えているだけです! それとも東雲さん、私と坂口くんの間に割って入る特別な権利でもあるんですか? まだ付き合ってもいない職場の同僚ですよね?」
「なっ……! と、特別とか同僚とか、そういう問題じゃなくて……!」
「はいそこまで!」
二人の間に、寿々木先生が慌てて割って入った。四十肩の痛む腕を懸命に広げ、バチバチと火花を散らす女の視線を遮る。
「気持ちは痛いほど分かりますがね、お二人とも! とりあえずこの場を脱出するのが先決です! 窓の外を見てください、タワーの異変に気づいた野次馬が集まり始めてます。警察やマスコミに囲まれたら、取り返しのつかないことになりますよ!」
寿々木先生の必死の制止に、二人は「ふんっ」と同時にそっぽを向いた。
俺は床にへたり込んだまま、額の冷や汗を拭う。
一同は息を潜め、気絶したキョンシーの山に騒然とする地上をやり過ごしながら、勝どきにある『寿々木治療院』へと向かった。
※次話で最終話となります!もう少しだけお付き合いいただければ幸いです!




