第46話「【ラストバトル⑦】歪みなき一瞬と、閉店の刻」
ぐい、と猪口を傾ける。濁った安酒の焼けつくような苦味が、喉元をじりじりと焼いていく。その痺れるような感覚だけが、胸の奥底で渦巻く焦燥と嫉妬を辛うじて麻痺させてくれた。
「国広さん、もうやめて……。お酒ばかり呑んでいたら、体に障るわ」
阿月がおずおずと伸ばしてきた白い指先が、卓の徳利に触れた。
その手を、俺は裏拳で乱暴に払いのけた。
パチン、と乾いた音が狭い板間に響く。
「触るなッ!」
弾き飛ばされた徳利が畳に転がり、生温かい酒がじわりと染みを作っていく。
阿月は痛む手首を押さえ、濡れた瞳で俺を見つめていた。その乱れた前合わせの隙間から、ふくよかな胸元が覗いている。
その柔らかな膨らみを目にした瞬間、頭の芯で何かがプツリと音を立てて千切れた。
「おい、阿月……」
虚ろに濁った目を向け、俺は乾ききった唇を開いた。
「お前、康継の工房へ行け。……そして、あいつを誘惑してこい」
阿月の息が止まった。顔からすっと血の気が引いていく。
「え……? 国広さん、何を……何を言っているの?」
「あいつは……康継は巨乳が好きらしいぞ」
自嘲混じりの笑いが、口端から歪に漏れ出る。
何を口走っているのか、自分でももう分からない。泥酔のせいか、それとも敗北の恐怖で脳髄が腐り落ちたのか。
「職人肌で、女に免疫のない奥手な男だ。お前のような肉付きのいい女がすがりつけば、ひとたまりもあるまいよ。……なぁ、頼むよ阿月。あいつを骨抜きにしてくれ。槌も握れねえように、魂を抜き取ってきてくれよ……! そうすれば、俺は『お前だけを一生愛す』!」
阿月の細い肩を力任せに掴み、揺さぶる。
その瞳に浮かんだ絶望と恐怖を前にしても、俺の口から溢れ出る醜い懇願は止まらなかった。そうでもしなければ、あの男の背中を引きずり下ろす術など、どこにも見当たらなかったのだ。
康継が不器用な職人肌だと聞きつけるや、俺は狂気に身を委ねた。
阿月をあいつの元へ送り込んで心を掻き乱そうと企て、その一方で、名門の権威を象徴する美代姫に取り入り、その腰を抱いて見せびらかすように町を闊歩した。
――どうだ康継。お前には打てぬ女という名刀を、俺はいくらでも従えているぞ。俺のほうが美しい。俺のほうが、この乱世を器用に、優雅に渡り歩いているのだ。
だが、豪奢な着物を羽織り、美代姫の甘い香りに包まれるたび、胃の腑の底に冷たい鉛が溜まっていった。
虚飾の優越感など、何の役にも立ちはしない。工房に戻れば、静まり返った炉の前で、己の打った刀の無言の刃に睨まれるだけだった。張り子の虎のプライドが、軋みを上げて内側からひび割れていく。
そして、運命の日。
徳川家専属刀工の最終選抜の場。
白州に平伏する俺の前に、朱塗りの刀掛けが据えられていた。
血を吐く思いで打ち上げた、俺の生涯最高の傑作。命を削り、魂の欠片を余すことなく練り込んだ一振りだ。
目付の老武士が、俺の刀を音もなく鞘から払う。
刃文を見つめ、切っ先を返し、わずか数瞬。老武士は眉ひとつ動かさず、パチンと鍔を鳴らして刀を鞘へと戻した。
「……康継の作とは、比べるべくもなし。退け」
放り出されるように、刀が畳の上へと無造作に転がされた。
その冷淡な一言が、俺の胸を貫いた。
心の中で張り詰めていた最後の細い糸が、音を立てて弾け飛んだ。
終わった。
自分を見失い、愛する阿月を泥沼に突き落としてまで追い求めた栄光は、一瞬の露となって消え失せた。
家族を守れなかった。
愛する女を守るどころか、己の卑小な嫉妬のために傷つけ、汚した。
神に愛された真の天才には遠く及ばない半端者。
幕府の気まぐれひとつで、明日には火あぶりにされるかもしれない隠れキリシタンの被差別民――。
それが、俺の剥き出しの正体だった。
神に選ばれた人間などでは、決してなかったのだ。
なんとまあ、救いようのない、くだらない生涯だったことか。
……だが、なぜだ?
なぜ今になって、こんな惨めで痛ましい記憶が走馬灯のように溢れ出してくる?
『どんなに辛い人生を送ってきた人間にも、美しい瞬間はある』
暗闇の底へ沈みゆく俺の耳に、静かな声が降ってきた。
(なんだ……この声は? まさか、あの小僧か……?)
『羽振院長の受け売りだけどな。お前の記憶に触れて分かったよ。……お前の人生の中にも、確かに美しい瞬間はあったはずだ。顔や才能に群がってきただけの女たちじゃない。お前という人間を、本当に理解して愛してくれた人との時間がさ』
(何を……知ったような口を……!)
反発しようとしたその時、暗闇の向こうから、柔らかな光が射し込んだ。
光の中から歩み出てきたのは――茶屋で俺の話を屈託ない笑顔で聞いていた阿月だった。
「国広さん」
(阿月……!? なぜお前が……!)
俺は激しく首を振った。
(来るな! 俺はお前を康継に差し向け、陥れ、その心をズタズタに引き裂いた男だぞ! 俺はそんな、反吐が出るほど浅ましい男なんだ! 俺なんかに構うなッ!)
だが、阿月は悲しげに微笑み、俺の震える手をそっと包み込んだ。
「最後に……私を本当に愛してくれていたことを思い出してくれて、よかった」
「阿月……?」
「あの頃のあなたは、ずっと苦しそうだった。でも、私と茶屋で話し、貧しい麦粥を分け合っていたときの国広さんは、とても優しかったわ。……ありがとう。私はようやく、これで旅立てます」
阿月の身体が、淡い光の粒となってほどけていく。
(あ……)
消えゆく光を見つめながら、俺の胸に温かな記憶が蘇っていた。
青大将が出たと笑っていた父の顔。
刀工として何の実績もなかった頃、俺の打った刃を「綺麗だね」と優しく撫でてくれた阿月の手のぬくもり。
彼らは、俺が絶世の美男子だから愛してくれたのではない。
神に選ばれた天才だから側にいてくれたのではない。
等身大の「俺」という人間そのものを、無条件に愛してくれていたのだ。
(ああ……そうか。俺は……俺の人生は、そこまでくだらないものじゃなかったのかもしれないな……)
頑なに凝り固まっていた数百年の怨念が、スウッとほどけていく。
俺の魂は、心地よい解放感の中で、光の彼方へと静かに昇華していった。
―――
大手町グランドセントラルタワー、37階。
吹き荒れていた暴風がピタリと止み、異様な前傾姿勢で軋んでいたタワーの心柱が、ゴクンと重い音を立てて本来の垂直のアライメントへと収まった。
街中を埋め尽くしていたキョンシーたちも、次々とその場に崩れ落ち、憑き物が落ちたように穏やかな寝息を立て始めている。
荒れ狂う怨念の残滓が、朝焼けの光の中に溶けて消えていく。
坂口は、剥き出しになったビルの背骨からそっと両手を離し、額の汗を拭った。
肺いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、澄み渡る東京の空を見上げながら、白衣の襟を正して静かに告げた。
「これにて、本日の整魂整体、閉店とさせていただきます。ご愛顧、誠にありがとうございました」




