第45話「【ラストバトル⑥】神に選ばれざる者」
俺は、神に選ばれた人間だ。
そう信じて、疑わずに生きてきた。
「国広様、先日の帯の結び方、本当に素敵でしたわ」
「まあ、私にもそのお話を伺わせてくださらない?」
「ふふ、二人ともそんなに焦るなよ。夜はまだ長いんだから」
町屋の通りで、艶やかな着物をまとった女たちに囲まれながら、俺は慣れた手つきでその肩を抱き、軽やかにいなしてみせる。
少し離れた格子戸の陰から、男たちのひそひそ話が耳に届いた。
「相変わらず国広の野郎はとんでもねえモテっぷりだな。一人くらい分けてもらいてえもんだぜ」
「仕方ねえよ。あいつの顔立ちの良さは尋常じゃねえ。男の俺ですら見惚れちまいそうになるんだからな。そのうえ武芸をやらせりゃ道場破りを返り討ち、学問もあっという間に先生を追い抜く。神に選ばれた人間ってのは、きっと国広みたいな奴のことを言うんだろうよ」
(ふっ、当たり前だろ)
俺は心の内で小さく嘲笑した。
幼少の頃から、俺を見る大人は誰もが「神が彫り上げた彫刻のように美しい」と褒めそやした。
道場へ通わせれば、二日目には何年も血のにじむ鍛錬を積んできた年上の兄弟子を叩きのめした。学問もそうだ。書物を一冊渡されれば、私塾に何年も通い詰める裕福な商家のボンボンどもを一瞬でごぼう抜きにした。
俺は特別だ。神に選ばれた人間なのだ。
今のこの塗炭の苦しみから、我が家を救い出すために――神が俺という器に、あらゆる才能を授けてくれたに違いないのだから。
「ただいま戻りました」
路地の奥、今にも崩れそうなあばら家の引き戸を開ける。
鼻をつくのは、カビと湿った土の匂いだ。
「おお、国広か。また床下から青大将が出おってな……」
痩せこけた父が、煤けた顔でため息をついていた。
隙間風が吹き抜ける極貧の我が家。
だが、そんなあばら家の奥、仏壇のさらに奥にある二重底の桐箱には――決して人目についてはいけない、薄い絹布に大切に包まれた異国の神の肖像画が、誰にも見つからぬよう潜まされていた。
(また、幕府の宗門改めの役人が巡回に来るらしい……)
見つかれば一族郎党、火あぶりの刑だ。
怯え、息を殺して暮らす日々。だが、俺は微塵も恐れていなかった。
こんな惨めな境遇も、自分が刀工としてのし上がり、天下を統べる徳川家の専属鍛冶に召し抱えられさえすれば、一瞬ですべて解決する。俺にはそれができる。俺は神に選ばれた人間なのだから。
――そう思っていた。
あの、江戸の地で開催された、全国の選りすぐりの刀工たちが技を競い合う大品評会に出品するまでは。
ずらりと並んだ刀剣を前に、俺は内心で鼻を鳴らしていた。
(ふん、どれもこれも大したことのない鈍刀ばかりだ。やはり、俺の研ぎ澄まされた刃に適う者など一人として――)
その時、会場の最奥に、異様な人だかりができているのに気がついた。
人垣は三重、四重に膨れ上がり、誰もが息を呑み、静まり返っている。
人並み外れて背の高い俺は、人々の上からすんなりとその視線の先を覗き込むことができた。
「――――ッ!?」
その瞬間、心臓を冷たい氷の杭で貫かれたような衝撃が走った。
飾り台の上に置かれていた一振りの太刀。
それは、別格だった。
青黒く冴え渡った地鉄には、まるで夜空の星々を散りばめたかのような極微の地沸が濃密に煌めいている。浅くのたれ、小互の目を交えた刃文の縁には、白い霧のような匂口が深く冴えわたり、細やかな金筋と砂流しが妖しいまでの輝きを放っていた。
美しい。
あまりにも妖艶で、恐ろしいまでに研ぎ澄まされた、人の手によるものとは思えぬ御業。
俺の足が、ガタガタと震え始めた。
自分の打った刀との差。
それは紙一重などという生易しいものではなかった。
底知れぬ深淵の谷底へと、頭から叩き落とされたような絶望。
「……おい、見たかよ」
人垣の中から、感嘆の吐息混じりの囁きが漏れた。
「この刀を打った康継って男……物の声が聞こえるらしいぜ」
「物の声……!?」
ざわめきが波のように広がる。
「ああ。真っ赤に焼けた玉鋼の声を聞いて、水に入るタイミングも、槌を打つ強さも、全部鋼に教えてもらいながら打つんだとさ。俺たち凡人には決して見えない、別の世界が見えているらしい」
「はあぁ……すっごい……」
「まさに、神に選ばれた真の天才の御業ねぇ……」
「しかも実家は裕福な豪農で、生まれつき苦労知らずのボンボンらしいぜ」
「へえ、天は二物も三物も与えるもんだねえ」
口々に称賛し、羨望の声を上げる群衆。
(鋼の声が……聞こえる……?)
俺の頭の中で、その言葉が呪いのように反響した。
(俺には……一度だって、聞こえたことがないぞ……!?)
結果は、康継の刀の圧倒的な優勝だった。
俺の刀は準優勝という栄誉を手にしたが、そんなものは敗北の焼き印にしか見えなかった。
這う這うの体で長屋へと帰り着くと、父も、母も、弟も妹も、満面の笑みで俺を出迎えてくれた。
「おお、そうか! さすがは国広だな!」
「国広、やったわね!」
「準優勝だなんて本当にすごいよ、おにいちゃん! これで少しは暮らしも楽になるね!」
無邪気に俺の準優勝を喜ぶ両親と、きらきらとした尊敬の眼差しを向ける弟と妹。
「……ああ。ありがとう、みんな……」
心ここにあらずの返事を絞り出す。しかし、それが限界だった。
「今、少し気持ちが落ち着かないので、しばらく外に出てきます……」
不思議そうに見つめる家族の視線を浴びながら、俺は重い足を引きずって武家屋敷近くの茶屋に向かった。
「あ、国広さん! どうだった!?」
茶屋の椅子に座りながら俺を満面の笑みで迎えたのは、痩身の割にやたら豊かな胸をしており、農作業で日焼けした黒い肌の阿月という名の女だった。
ある日、この茶屋で団子を食っていたとき、阿月が一人で茶を飲んでいた。それを見た俺は、阿月に気まぐれで話しかけた。その時、お互い生家が極貧だということを知り、気が付けば意気投合して逢瀬を重ねる仲になっていた。
「ダメだった……。準優勝だったよ」
力なく茶屋の腰掛けに沈み込む俺を見て、阿月はきょとんと目を丸くした。
「えっ……? だって国広さん、全国から集まった名だたる刀鍛冶たちの中で、二番目ってことでしょ? それのどこがダメなんですか!? すごいじゃない!」
心底誇らしそうに白い歯をこぼす阿月に、俺は苦い息を吐き出した。
「二番じゃダメなんだ。一番じゃなきゃ、徳川のお抱えにはなれない。一番の康継って奴の刀は……、化物みたいな業物だった」
それ以上のことは、口が裂けても言えなかった。
会場のざわめき。
「鋼の声を聞いて打つ」という、あの男、康継の天性の異能。
何十年鍛錬を重ねようと届かない、神に愛された真の天才と凡夫との絶望的なまでの隔絶――。
そんな屈辱を誰かに明かせば、これまでの己の存在すべてが崩れ落ちてしまいそうだった。
俺が唇を噛み締めて黙り込むと、阿月はふっと表情を和らげ、頼んであった冷たい茶の椀を俺の前へと押しやった。
「二番で悔しいのは分かりますけど。でも、あんまり自分を責めないでください。ほら、お茶飲んで。喉が、からからじゃないですか?」
差し出された茶を一口すすると、焦げた麦の香りと冷たさが、引きつった胸の奥にじんわりと染み渡った。
「私の家なんてね、去年の年貢で米なんて一粒も残らなくて、麦に大根の葉を混ぜた粥ばかりすすってるんですよ。お父ちゃんは腰を痛めて野良仕事もままならないし、私も夜なべで筵を編んで、ようやく銭を数文稼ぐのがやっと。着物だって継ぎ接ぎだらけで、たまに泣きたくなる日もありますよ」
阿月は日焼けした腕の擦り傷を見せながら、へらりと笑ってみせた。
当時の下層の暮らしそのままの過酷な貧しさを、この女は卑屈になることもなく、あっけらかんと笑い飛ばす。
「でもね、国広さんが鉄を叩いてる姿を見ると、なんだか元気が出るんです。国広さんの刀はさ、真っ直ぐで、重くて、誰よりも一生懸命な人の温もりが宿ってる。私はあの刀が大好きだし……何より、どんなに暮らしが苦しくても、家族のために必死になってる国広さんのことが、一番立派だと思いますよ」
町で言い寄ってくる女たちは、俺の涼しげな顔立ちや仕草ばかりに目を奪われていた。
道場の連中は俺の剣筋や呑み込みの早さを称え、持て囃した。
だが、この阿月だけは違っていた。
「俺」という人間そのものを、何の計算もなく愛してくれている。
「……阿月」
「なんです?」
「お前と話していると……俺は、ただの俺でいいんだって思えてくるよ」
「当たり前じゃないですか。国広さんは国広さんですよ。お腹すいてるなら、私が茶屋の団子でも奢ってあげましょうか? 銭入れに三文だけ残っていますから!」
帯の間から古びた銭入れを取り出し、誇らしげに振ってみせる阿月。
夕暮れ時の茶屋の軒先、茜色に染まる空の下で、俺の凍りついていた心に温かな灯がともるようだった。
神の奇跡や選民の誇りなどなくとも、この女の笑顔と温もりさえあれば、俺は泥臭く生きていけるのではないか――。
そんな安らぎすら覚えた。
だが、そのささやかな救いすらも、翌朝の狂気と冷徹な現実を前にして、脆くも崩れ去った。
――翌朝、夜明け前から工房の炉に火を入れた。
お抱えの大名から直々に依頼された、名誉挽回のための一振り。
俺は赤く照らされた鋼を見つめ、必死に耳を澄ませた。
(聞こえろ……! 頼む、俺に語りかけてくれ……!)
狂ったように槌を振り下ろし、汗を血のように流しながら、何百回、何千回と鋼を折り返し鍛錬した。
だが――。
夕暮れ時、焼き入れを終えて冷えた刀身を研ぎ上げた瞬間、俺はがっくりと鍛冶場の土間に頽れた。
出来上がったのは、確かに業物と呼べる見事な刀だった。
だが……昨日見た康継のあの刀には、天地がひっくり返っても遠く及ばない。
そんなことは、誰よりも俺自身の目が痛いほどに理解していた。
「お、俺の家は……いつ幕府に弾圧されるか分からないんだぞ……!」
俺は冷たい土を爪が剥がれるほど掻きむしり、嗚咽を漏らした。
「だから……だから俺は、徳川家専属の刀工になって、その絶対的な庇護の下に入らなきゃいけないんだ! 二番手じゃだめなんだ! 神よ、あんたは俺たちをこの理不尽な苦境から救うために、俺をこの世に選んで生み落としたんじゃなかったのか!? なんで……なんで元から何不自由ない豪農のボンボンに肩入れするんだ……ッ!?」
どれだけ祈っても、神からの奇跡など届かない。
俺は血の滲む手で、自らが命を削って打ち上げたばかりの冷たい刀を抱き寄せた。
鏡のように磨かれた刀身に映るのは、絶望に歪み、涙で濡れた自分の醜い顔だけだった。
「俺は……お前を作るために、命のすべてを懸けているんだ」
声が震え、嗚咽とともに擦れた言葉がこぼれ落ちる。
「なのに……どうして……。どうして俺には……語りかけてくれない……ッ!」
静まり返った工房で、冷たい鋼はただの無言を貫いていた。




