第44話「【ラストバトル⑤】哀しき刀工の真実と、最後のアジャスト」
「放置するには、あまりに酷い首のコリですからね。――ちょっと37階まで、タワーの首をボキッと鳴らしに行ってきます! 森田先生、寿々木先生、みんなを頼みます!」
俺はそう言い残し、非常階段の重厚な防火扉へと飛び込んだ。
踊り場に出て、一応すぐ横のエレベーターホールを確認してみたが――液晶パネルは不気味に明滅したまま完全に沈黙している。
「やっぱり止まってるか……! また階段かよ、死ぬぞ……!」
21階から37階まで、実に16フロア分の垂直移動。
日頃の運動不足に加え、体内血液の数パーセントがストロングゼロに置換されつつある我が肉体には、あまりにも過酷すぎる登山宣告だった。
(ダメだ、弱音を吐くな……! 東雲さんの笑顔を、あの涙を思い出せッ!)
脳裏に浮かぶ東雲さんの泣き顔を燃料にして、俺はゼイゼイと激しい息を吐きながら一段飛ばしで階段を駆け上がり始めた。
ヒュンッ! バキィンッ!
階段の途中、手すりが蛇のようにのたうち回り、壁のコンクリート片が弾丸のように飛来して妨害を仕掛けてくる。国広が37階に行こうとしている俺を妨害しているのだ。
俺は「タワーの中央から離れない」ことだけを徹底した。
コアに近い非常階段の芯へ身を潜めていれば、国広も建物の崩壊を恐れて致命的な大技は撃ち込めない。
飛んでくる細かい建材は、右手に宿る『一期一振』の鋭利な手刀で最小限に切り払い、ひたすら上へ、上へと脚を回し続けた。
「ゼェ……ハァ……! さん……30階……! あと、7階……なんとかいけそうだ……!」
腿が鉛のように重くなり、肺が焼けるような痛みを訴え始めたその時だった。
30階の防火扉が爆音とともに吹き飛び、目の前の踊り場へ異様な影たちが立ちふさがった。
「お客様ァァッ! 人生の不確実性に備えて、外資系ドル建て終身保険はいかがですかァッ! 月々わずか十万円で手に入る安心の未来ィィッ!」
契約書を凶器のように振りかざす外資系保険キョンシー!
さらにその背後から、高級ブランドの紙袋と腕時計をジャラジャラと身にまとった連中が雪崩れ込んでくる。
「当ブティックの限定バーキンをお持ちでない方に、港区を歩く資格はございませんのよォッ!」
「買えッ! 120回無金利ローンでスイス製高級時計を買ってマウントを取れェェッ!」
「湾岸タワマンの最上階をフルローンで買って転売益を狙うのが唯一の勝ち組ロードォォッ!」
国広が撒き散らした資本主義の虚栄心と他罰感情に脳を焼かれた、俗物キョンシー軍団の押し売りラッシュ!
「うっせええええッ!!」
俺は階段の手すりを蹴って跳躍した。
「将来の不安は新NISAのオルカン一本で十分なんだよ! 骨盤前傾、アジャストッ!」
「ぎゃあああっ!?(痛みが消えて急に将来が楽観的に思えてきたァァッ!)」
「見栄で買うバーキンよりユニクロの機能性バッグのほうが圧倒的に軽いんだよ! 肩甲骨はがしッ!」
「ひゃああんっ!?(背中が軽くなって物欲が消え失せていくぅぅッ!)」
「Apple Watchの通知機能で時間は足りてるんだよ! 頸椎アライメント矯正ッ!」
「ぐふぅっ!?(ローン地獄の幻影から目が覚めたァァッ!)」
襲いかかるキョンシーたちを、SEの超合理的金銭感覚の正論で論破しつつ、神速の手技で片っ端から関節をパキパキと鳴らして脱力させていく。
あっという間に階段へ綺麗に正座して昇天(正気を取り戻して熟睡)していく店員たちを飛び越え、俺は一気に最後の段を駆け抜けた。
「ハァ……ハァ……着いたぞ……37階ッ!」
重い扉を蹴破ると、そこは暴風吹き荒れるタワー最上階のペントハウスフロアだった。
外壁のガラスは砕け散り、眼下には東京中の夜景と、蠢くキョンシーの濁流が広がっている。
そしてフロアの中央――巨大な鉄骨と配管が禍々しく黒く絡み合い、異様な角度で前傾してギチギチと軋みを上げている「タワーの心柱」が鎮座していた。
重度のストレートネック。
建物の首の骨が、狂気の負荷に耐えかねて悲鳴を上げている。
「さあ……アジャストの時間だ」
俺は右手に全霊の気を集中させた。
もはやただの手刀ではない。刃物を持たぬ俺の右腕全体が、目映い蒼白の刀気を纏い、神仏の域に達した日本刀そのものへと変貌する。
「はぁぁぁッ――一期一振ッ!!」
空間を撫でるような一閃。
音もなく繰り出された手刀の軌跡が、心柱を覆っていた黒い外壁と防護コンクリートを、紙風船のように綺麗に四角く切り落とした。
ドサリと外殻が剥がれ落ち、中から脈打つ純粋な「タワーの背骨」が露わになる。
その、剥き出しになった急所へ手を伸ばした――まさにその瞬間だった。
ピカァァァッッッ!!
タワーの骨組み全体が、羽振の目から放たれたのと似た、しかしその何十倍も不気味な黒光りを、最大出力で放射してきた。
至近距離での『歪視眼』。
網膜が焼かれ、視界が歪み、俺の脳内へ直接、底知れぬ絶望の幻影が流し込まれる。
『ぐああぁぁぁ!!』
意識の奥深く、今まで俺を支えてくれていた康継さんの温かな魂の光が――黒い蛇の牙によって引き裂かれ、粉々に砕け散っていた。イケメンとは言えないけども、職人然とした精悍な顔が絶望に歪み、なりふり構わず命乞いをしていた。
『うあぁぁ……、たすけて、たすけてえぇぇぇ!!』
右腕から、あれほど満ちていた『一期一振』の力が潮が引くように消え去っていくような、底知れぬ喪失感。
フロア全体を揺るがすような、地鳴りのごとき国広の哄笑が轟いた。
『ふはははは!! とうとう康継を殺してやったぞ! 小僧、お前ももう終わりだ!』
世界が闇に沈むような強烈な催眠。
だが――。
俺はフッと息を吐き、唇の端を吊り上げた。
「ウソをつくな。康継さんは、お前なんかに負けない」
『……何だと? 何を根拠に言っている。康継の霊魂は、今、消滅したのだ!』
動じる気配のない俺に、国広の声がわずかに苛立ちを帯びる。
俺はその言葉にも眉一つ動かさず、静かに歩を進めた。
「お前、なんで俺が羽振や阿月に『整魂整体』を使って魂の施術をするところを、黙って見ていたんだ? ……いや、言わなくてもいい。俺は、昨日からずっとお前と一緒にいたから知っているんだ」
『……何を言っている……』
「お前、康継さんの技に魅せられていたんだろ。あまりにも美しい、神に選ばれた人間の御業に。見惚れていたからこそ……お前は絶好の好機を二度も逃したんだ」
『…………黙れ』
タワーの軋みが止まり、冷たい沈黙が落ちる。
図星を突かれた怪物の、痛ましいほどの動揺。
大蛇に体を砕かれた康継さんの姿が、脳裏からすーっと消え去っていく。
「お前はさっき、強がって康継さんを八つ裂きにしてやると言っていたが、そんなことができるはずがない。……お前の精神は、とっくの昔に康継さんに屈服しているからだ。だから、俺の意識の表面に逃げてきたんだろ。康継さんに勝つことを、心の底で諦めて」
『小僧……黙れと言っている……ッ!』
「今のお前は、神に選ばれた人間を仰ぎ見て、何百年経っても埋まらない自分との差を嘆いてすすり泣く、ただの哀れな魂だ」
俺は真っ直ぐに、剥き出しになったタワーの背骨を見つめた。
「……同情できなくもない。だから、お前の魂だけは救う」
『黙れ黙れ黙れェェェッッッ!!!』
逆上した国広の咆哮とともに、37階に転がる巨大なコンクリート塊、鉄骨、ガラスの破片が一斉に宙へと浮き上がり、暴風となって俺に殺到してくる!
俺は怯まず、右の手刀を鋭く振り抜いた。
飛来する瓦礫の嵐を、紙一重の神速で次々と弾き飛ばし、両断し、空間を切り拓く。
そして――。
剥き出しになったタワーの背骨、その最も激しく歪んだ結節点へ、俺はそっと両掌を添えた。
何百年も張り詰め、悲鳴を上げ続けてきた男の首筋を包み込むように、吸い付くように。
「整魂整体――アジャスト」
祈るような呟きとともに、俺はタワーの背骨へ、優しく、慈しむような一撃を滑り込ませた。




