第48話「【大団円】これからの二人」
治療院の畳の上で、温かい緑茶をすすりながら、東雲がポツリと呟いた。
「そう……阿月さんは、無事に成仏できたのね」
「うん」
俺は包帯の巻かれた自分の右手を見つめながら頷いた。
「国広にも、阿月を心から愛していた瞬間があったんです。どんなに歪んでしまった人生でも、かけがえのない美しい瞬間は誰にでもある。俺は運よく、その記憶の結節点にアジャストできただけです。……それもこれも、みんなが命がけで繋いでくれたおかげですよ。本当に、ありがとうございました」
その言葉を静かに聞いていた森田先生が、痛む脇腹を押さえながら、いたたまれない表情で口を開いた。
「……坂口くん。あなたには、謝っても謝りきれません。私のことを、深く恨んでいるでしょう? あのとき、私はあなたごと国広を消そうとした……」
俺は苦笑し、頭を掻いた。
「まあ、正直とんでもない一撃だったし、死ぬかと思いましたけどね。でも、あの極限状態で、組織の責任者として全員の命を背負っていた森田先生の立場なら……俺が同じ状況でも、そう判断したかもしれません。管理職って、本当に大変ですよね」
森田先生は目を見張り、ぽかんと俺を見つめた。
やがて、その張り詰めていた表情がふっとほどけ、年相応の柔らかな笑みがこぼれた。
「……ふふ。坂口くん、あなたはどこまでも優しいのね。その底知れない優しさと共感力こそが、傷ついた患者の魂を芯から癒やすのでしょう。あなたは、真に人を救うことができる、選ばれた整体師だわ」
「いやいや、それほどでもないですよ(……でも、超高層ビルのストレートネックを治した実績を考えたら、ちょっと自惚れてもいいのかな……!?)」
俺が内心で鼻の下を伸ばしかけたその時、森田が改まった面持ちで身を乗り出してきた。
「坂口くん。単刀直入に言うわ。日本整体師協会に入らないかしら? いえ――私の推薦で、協会の『理事』に就任してほしいの」
「……は、はい?」
俺の思考がフリーズした。
「今の業界には、わざと歪みを治さず、何度も通わせて金を巻き上げるような詐欺まがいの整体師が蔓延っているわ。私と共に組織の膿を出し、人々の心と体を整え、この世の歪みを正す仕事を手伝ってほしいの」
森田は真剣そのものの眼差しで、言葉を重ねた。
「協会の理事ポストを用意するわ。固定報酬だけでも年収三千万円は下らない。政財界の要人を相手にする専属施術の特別手当もつくし、協会の広報塔として、業界内での社会的地位も権力も、あなたが望むものはすべて手に入る。何より、あなたはあの怨霊・国広を鎮め、この国を救ったのよ。あなたにはそれだけの価値があるし、それを受け取る権利があるわ」
「な……年収三千……!? しゃ、社会的地位……!?」
突然の破格すぎる条件の乱れ打ちに、坂口の目は白黒した。ストロングゼロ何万本分だ、と元SEの計算脳が高速で弾き出す。
しかし、森田の表情はすぐに引き締まった。
「ただし……甘い話ばかりではないわ。日本全国の支部を飛び回り、不正を働く施術所の監査に立ち会い、さらには裏で蠢く霊的特異案件の最前線にも駆り出される。月に家に帰れるのは数日あればいい方。寝る間も惜しんでこの業界の歪みと戦い続ける、極めてハードワークな日々になるわ。それでも――あなたになら、任せられると思うの」
息を呑むような条件。
文字通り、日本の頂点へと駆け上がるレールだった。
だが、ふと横に気配を感じて視線を向けると、東雲が青ざめた顔で俯いていた。
膝の上に乗せた両手は白くなるほど固く握りしめられ、その肩は小さく震えている。今にも大粒の涙が零れ落ちそうな、すがりつくような寂しげな瞳が、坂口をじっと見つめていた。
(……全国を飛び回って、月に数日しか帰れない激務……)
目の前にあるのは、眩いばかりの富と名声。
だが、それを選んでしまえば、目の前の彼女と過ごす時間、くだらないことで笑い合い、肩を並べて歩くささやかな日常は、跡形もなく消え去ってしまう。
新NISAの画面を見ながら、いつかこの人と温かい家庭を築きたいと夢見た、あの意識の底での願いは――。
坂口の迷いは、一秒とも続かなかった。
「森田先生」
坂口は背筋を正し、森田に向かって穏やかに、だが揺るぎない眼差しで頭を下げた。
「身に余るほど光栄なお話です。評価してくださったこと、心の底から感謝します。……ですが、少し考えさせてください。この件については、ちゃんと膝を突き合わせて、じっくりと話し合わなければならない、俺にとって世界で一番大切な人がいますから」
そう言って、坂口は横に座る東雲へと視線を向け、優しく微笑みかけた。
「……っ!」
東雲はハッと息を呑み、胸元をぎゅっと掻き抱いた。
その瞳から、堪えきれなくなった透明な雫が、ポロポロと畳の上へこぼれ落ちていく。それは恐怖や絶望の涙ではなく、胸の奥を満たす、温かな安堵の涙だった。
―――
あの激闘から数週間後。
大手町のオフィス街にある、飾らない大衆定食屋。
昼時の活気に満ちた店内で、東雲は一人、日替わりの生姜焼き定食をつついていた。
背後のボックス席から、スーツ姿のサラリーマンたちの話し声が聞こえてくる。
「おい、例の『坂口』っていう整体師の噂、知ってるか? とんでもねえ腕前らしいぜ」
「知ってる! 最近整体を始めたばかりの元SEらしいけど、並み居るベテランを差し置いて、今や政財界の重鎮まで予約待ちのトップクラスだろ?」
「あの若き天才、森田美桜以来の逸材だよな。協会の理事ポストまで用意されたらしいぜ」
「それがさ、あっさり断ったらしいんだよ」
「えっ、なんで!?」
「なんでも……『愛する人と相談した結果、二人の時間を一番大切にしたいから』って理由らしいぜ」
「嘘だろ、カッコよすぎるだろ……! 私もそんなこと言われてみたいわぁ」
箸を止め、東雲の口元が自然とほころぶ。
胸の奥がじんわりと温かくなり、誇らしさで満たされていく。
カランコロン、と店の引き戸が開いた。
入ってきた人影を見て、周囲の客が「あ……!」と小さく息を呑む。
カジュアルなジャケットに身を包んだ坂口が、店先で人懐っこい笑みを浮かべていた。
「お待たせ、葵ちゃん」
東雲は立ち上がり、満開の花のような笑顔で応えた。
「待ってましたよ、拓海くん」
了
※この物語は、これにて終了です。 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました! 面白かったと思っていただけたなら、ポイント評価や感想などをお寄せいただければ幸いです!




