第40話「【ラストバトル①】英雄の介錯と、歪む祭壇」
森田美桜は息を潜め、タワーマンションの冷え切った内廊下を疾走していた。
フロア全体に漂うのは、鼻を突く鉄錆と線香の混ざり合ったような異臭――歪みの元凶たる阿月が撒き散らす気配だ。一刻も早く本体を突き止め、この怪異の根源を断たねばならない。
角を曲がろうとしたその瞬間、前方から乱れた足音が響いてきた。
森田は瞬時に身構え、指先へ霊力を込める。だが、薄暗い非常灯の下から姿を現したのは、怨霊の類いではなく――肩で息をし、胸元を乱した桜井の姿だった。
「桜井さん……!? なぜあなたがここに」
「森田……先生……っ!」
桜井は膝に手をつき、荒い呼吸を整えようと必死に喘ぎながら、森田を見上げた。額には大粒の汗が滲み、その瞳は恐怖に揺れながらも、決して退かない強い光を宿している。
「坂口くんと東雲さんを追ってきたのね。……危険すぎるわ。ここは民間の人間が足を踏み入れていい領域じゃない。すぐに引き返しなさい」
森田が低く厳格な声で告げると、桜井は強く首を横に振った。
「嫌です……! 私、じっとなんてしていられません。それに……私、分かるんです」
「分かる……?」
桜井は自らの胸元をぎゅっと掻きむしるように握りしめ、上層階を見上げるように視線を彷徨わせた。
「阿月の気配……私の中にいた『あの子』の気配が。阿月の本体は……きっと、このビルの21階にいます」
「共鳴……」
森田は眉根を寄せた。桜井は阿月の分身に憑かれていたが、もう祓ったというのにこれほど明確に位置を捉えているというのか。
心の底の部分で共鳴した者どうしのテレパシーのようなものなのだろうか。
……迷っている時間はない。
森田は短く息を吐き、桜井の目を見据えた。
「案内してください。ただし、私の背後から絶対に離れないで」
「はいっ!」
二人は非常階段へと飛び込んで、階段を駆け上がった。
桜井さんはそのハードワークで息を切らせたが、必死に森田に食らいついていく。愛する坂口を想う気持ちが、彼女の限界を押し上げているのだろうか。
21階の重厚な防火扉を押し開けた瞬間――森田の全身の産毛が逆立ち、肌を切り裂くような濃密な霊気が、津波となって二人に襲いかかってきた。
重厚な結婚式場の扉を開け放った森田の目に飛び込んできたのは、最悪の光景だった。
黒い大蛇のような影を纏った坂口が、倒れ伏した寿々木へと容赦ない追撃を加えようと跳躍していた。
(くっ……恐れていたことが! 坂口くんが、阿月を取り込んだ国広に肉体を完全に乗っ取られかけている……!)
だが、絶望と同時に、冷徹な観察眼がひとつの勝機を見出していた。
寿々木を仕留めることに全神経を集中させている今、国広の背後は完全に無防備だ。
(今しかない……! この一瞬の好機を逃せば、もう二度と国広を仕留めるチャンスは巡ってこない!)
森田は迷いを切り捨て、バージンロードを疾走した。全身の霊力を指先へと凝縮させ、音もなく背後へと肉薄する。
そして、全速力で坂口の全身の急所と経絡へ向けて連撃を叩き込んだ!
「禁技――天柱断絶整魄ッッ!!」
ドガガガガガッッッ!!
「う……が……ッ!?」
空気を震わせる鈍い衝撃音とともに、坂口の身体から力が抜け落ちる。
がっくりと膝をつき、そのままバージンロードの床へと突っ伏した坂口を見下ろし、森田は胸の奥を締め付けられる痛みを堪えながら、静かに告げた。
「ごめんなさい、坂口くん。……でも、あなたはこの世の歪みを正すために戦った英雄として、皆の心の中で生き続けるわ。どうか……安らかに眠りなさい」
その凄惨な光景に、寿々木が荒い息を吐きながら床から這い上がり、信じられないものを見る目で森田を凝視した。
「森田……先生……! 今の技は……まさか『天柱断絶整魄』か!? あれは本来、災いをもたらす怪異そのものへ直接叩き込み、魂の根源を消滅させる技……! 生きた人間に使っていい技じゃないぞ……ッ!」
寿々木の悲痛な叫びを聞いた東雲が、息を呑み、血の気を失った顔で森田を見上げた。
「え……? 人間に、使っちゃいけない……? そ、そんな……坂口さんは……坂口さんはどうなるんですか!?」
森田は表情を一切崩さず、倒れた坂口から視線を逸らさなかった。
寿々木の言う通りだ。この技を人間に撃ち込めば、その肉体と神経は二度と元には戻らない。
だが――阿月を取り込んだばかりで、寿々木に気を取られて背後を見せていたあの刹那を逃せば、国広を倒す手段は完全に失われていた。だからこそ、やむを得ず器である坂口の肉体ごと、怨霊を討滅する道を選んだのだ。
(坂口くんには、本当に申し訳ない……。けれど、これはこの世の歪みを正すために、どうしても必要な決断だった。ここで一撃の下に葬らなければ、やがて世界には憎しみと混沌が満ち溢れ、数え切れないほどの犠牲者が出ていたはずだ。私は……全体を見て、最も被害の少ない正しい判断を下したのだ。全て、仕方のないことだった。私は……間違っていない……)
心の中で自分にそう言い聞かせ、必死に正当化の言葉を並べ立てる。
だが、白衣のポケットの中で握りしめた森田の指先は、微かに、しかし止まることなく震えていた。
「どうして……どうしてそんな酷いことができるんですかッ!!」
東雲が涙をボロボロと零しながら立ち上がり、森田の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「坂口さんは……坂口さんは私たちを助けるために、ずっと命懸けで戦ってきたんですよ!? なのに……どうして味方であるはずのあなたが、坂口さんを殺すような真似をするんですかッ!!」
泣き叫ぶ東雲の痛烈な糾弾を、森田は微動だにせず受け止めた。
「……あなたの怒りはもっともよ。あなたの心は正しい。私への恨みなら、甘んじて受け入れます」
森田は静かに目を閉じ、自らの左頬を東雲の前へと差し出した。
「これであなたの気が済むのなら、好きなだけ叩きなさい。……でも、どうか理解してほしい。私は日本整体師協会の理事として、国広がもたらそうとしていた巨大な破壊と混沌を、未然に防ぐためにこうするしかなかったのだということを」
パァァァンッッッ!!
乾いた強烈な音が、静まり返ったチャペルに響き渡った。
東雲の手が、躊躇なく森田の左頬を打ち据えていた。
叩いた東雲自身の手も激しく震えており、その瞳からは大粒の涙が次から次へと溢れ落ちている。
森田は、じんじんと熱くひりつく頬の痛みを噛み締めながら、茫漠とした思いで虚空を見つめた。
脳裏をよぎるのは、若干二十九歳という異例の若さで日本整体師協会の理事に抜擢されてからの孤独な日々だった。
(ああ……上に行けば行くほど、組織のために、皆のために『正しいこと』を選択するたびに、私は孤独になっていく……)
常に大局を見据え、最小の犠牲で最大の平穏を守る。その正しさを貫いてきたはずなのに、なぜ自分は誰からも愛されず、こうして憎まれ、拒絶されるのか。
正しい行いは多くの人々にとって幸福なはずなのだから、愛されて然るべきではないのか。
(……いや。そもそも、私が今下した決断は、本当に『正しかった』のだろうか? 目の前のかけがえのない仲間を想い、ただその命のために流される涙は……組織の掲げる大義名分よりも、本当に軽いものだと言い切れるのだろうか……?)
胸を鋭くえぐるような自己矛盾と後悔が、森田の思考を黒く染め上げていく。
――その時だった。
「……動いて、いる……?」
チャペルの入り口の扉付近に立ち尽くしていた桜井が、呆然とした声で呟いた。
「え……?」
寿々木と東雲が涙を拭い、怪訝そうに桜井を見る。
桜井は震える指で床を指差した。
「床が……動いています!」
その言葉にはっとして視線を落とした瞬間、森田の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
大理石の床が、まるで生き物の皮膚のように脈打ち、波打つようにうねり始めていたのだ!
異変は床だけにとどまらない。豪奢な白壁が、アーチを描く高い天井が、まるで巨大な怪物の胎内のようにギチギチと音を立てて歪み、呼吸するように伸縮を始めている。
「これは……一体どういうこと!?」
森田は戦慄し、咄嗟に床に倒れ伏している坂口へと視線を走らせた。
そこで、決定的な異常に気づく。
(……消えている……!?)
坂口の身体から、あれほど禍々しく渦巻いていた国広の怨念も、喰らわれた阿月の霊気も、完全に消え失せていたのだ。
いくら『天柱断絶整魄』を直撃させたとはいえ、数百年の怨念を蓄積させた大蛇の霊が、今の一瞬で痕跡すら残さず霧散するなど絶対にあり得ない。
「まさか……!」
森田の喉から、掠れた叫びが漏れた。
最初から坂口の肉体など、一時的な足場にすぎなかったのだ。阿月の霊力を完全に吸収し、機が熟したその瞬間――
「国広の霊は……坂口くんの肉体を捨てて、この悪霊の巨大な祭壇――大手町グランドセントラルタワーそのものと一体化し始めているというの……!?」
建物全体が咆哮を上げるように激しく軋み、狂気の光景が目の前に広がり始めていた。




