第39話「【侵蝕】蛇影の捕食と、禁じられた一撃」
張り詰めた緊張感が、夜の結婚式場を満たしていた。
割れたステンドグラスから吹き込む冷たい風の中、俺と東雲さん、寿々木先生の三人は油断なく周囲を見渡す。
しーん、と静まり返った夜のチャペル。誰もいないはずの広い空間が、妙に不気味に肌を刺す。
(……やはり、何もないのか?)
拍子抜けする思いの反面、さっきから胃の奥が焼けるように激しく疼いていた。猛烈な空腹感。そういえば、現実世界に戻ってきてからまだ夕飯を食べていなかった。
いや、それだけじゃない。なぜか無性に、猛烈に酒が飲みたかった。そりゃあもう、今すぐ肝臓をぶっ壊して死んでしまうんじゃないかというほどの渇きが喉を焼く。
「……坂口さん、なんだかいやな予感がします。怖気が止まらないんです」
東雲さんが青ざめた顔で自分の肩を抱きしめた。
「私の中に……まだ残っている阿月が、ひどく怯えているような気がして……」
(阿月が怯えている……? 何に? ……俺の中にいる国広にか……?)
あぁ、そんなに怯えないでくれよ。
ぼんやりとそう思いながら、俺の足はふらふらと東雲さんの方へと歩み寄っていた。
寿々木先生と東雲さんが「どうしたんだ」と怪訝な眼差しを向けてくる中、俺の頭はただただ『腹が減ったな』という得体の知れない衝動に支配されていた。
異様な空気に呑まれて身を竦ませる東雲さんの至近距離まで詰め寄り、俺は口を開いた。
「東雲さん……」
「……?」
「食べさせて」
何を言っているのか、自分でもまったく分からなかった。
自分の唇が、喉が、勝手に動いている。
昨日キョンシーになって暴走した時と同じ――いや、それどころじゃない。自分が自分ではない何者かにすり替わってしまったような感覚。もう二度と、人間の意識に戻ってこれないんじゃないかと思えるほどの絶望的な侵食。
その時、意識の底の底から、鋭い男の怒声が響いた。
『――そっちに逃げた! 注意しろッ!!』
(誰だ……!? 康継さん……なのか!?)
思考が追いつく間もなく、俺の右手が勝手に東雲さんの肩を乱暴に掴んでいた。
口から吐き出される、意味不明な呪詛の呟き。
次の瞬間、俺の手は東雲さんの肩口から、ゆらゆらと蠢く白い霊魂のようなものを無理やり引きずり出していた!
その霊は――日焼けした痩せこけた体躯に、不釣り合いなほど豊かな胸を持つ女性の姿。
「こ、これは……阿月の霊……!?」
『く、国広さん……!? やめて、助けてぇぇぇッ!!』
じたばたと必死に抵抗する阿月の霊。
だが次の瞬間、俺の顎が外れんばかりに大きく開き、掃除機のように阿月の霊を頭から一気に丸呑みしていた。
ゴクン……!
「あぁ……美味だ。思った通り、先ほどのこの小僧との闘いで、いい具合に肉がほぐれているな。数百年ぶりの食事、堪能したぞ……」
そう呟く俺自身の声は、もはや俺のものではなかった。
足元を見れば、蒼白い月明かりに照らされた影が、大蛇のように凶悪にうごめき、みるみるうちに巨大な輪郭へと膨れ上がっていく。
「くっ、これは……! 阿月の心の歪みを正すことに康継が霊力を集中させている隙を突いて、国広が坂口君の肉体の侵食を完了させていたのか……ッ!」
寿々木先生の叫び声が、まるで水底から聞こえるように遠い。
(この巨大な蛇の影が……現世における国広の真の姿なのか……!?)
阿月の記憶の世界で見た国広は、目を見張るような絶世の美男子だった。
――しかし、現世に現れた国広は、目を覆うような醜悪な毒蛇の姿になっていた。これが、国広の美しい見た目の裏側にある本性なのだろう。
「オオオォォォッ!!」
自分の意志を完全に無視して、俺の肉体がすさまじい速度で寿々木先生へ襲いかかる!
繰り出された鋭い貫手。寿々木先生は咄嗟に腕を交差させて間一髪でガードしたが、その衝撃で床を何メートルも滑っていった。
「忌々しい宮司の末裔め……! よくも俺を封じてくれたなァッ!!」
「ぐ、うぅっ……!」
「坂口さん、やめてぇぇっ!!」
東雲さんの悲痛な叫びも届かず、狂気に染まった俺の身体は、倒れ込んだ寿々木先生へと容赦なく追い討ちをかけようと跳躍する。
――その刹那。
チャペルの入り口の重厚な扉が開き、風を切り裂くような圧倒的な気配がバージンロードを疾走してきた。
振り向く暇すらなかった。
背後から音もなく肉薄したその何者かは、俺の身体の急所という急所へ、目にも留まらぬ速度で連続の打突と経絡破壊を叩き込んできた!
ドガガガガガッッッ!!
「う……が……ッ!?」
これまでに味わったことのない衝撃だった。
激痛ではない。神経が根こそぎ弛緩していくようなすさまじい快感と、全身の生命力が抜け落ちていくような底なしの虚脱感が同時に脳を襲う。
もう二度と起き上がれないかもしれない。
がっくりと膝をつき、俺はバージンロードの冷たい床へうつ伏せに倒れ伏した。
視界の先、入り口の扉の前に見えたのは――桜井さんの姿。
(桜井さんが……? まさかな、それはないな……)
俺を背後から一撃で沈めたこの人間離れした技を放ったのは、絶対に桜井さんじゃない。
薄れゆく意識の淵で、冷徹で、どこか震える女の声が耳元に降ってきた。
「禁技・天柱断絶整魄……。国広と阿月の怨念を同時に断ち切るには、この器ごと仕留めるしかありませんでした」
俺を見下ろしていたのは、白衣を纏い、見たこともないほど悲痛な目を向けた森田先生だった。
「ごめんなさい、坂口くん。……でも、あなたはこの世の歪みを正すために戦った英雄として、皆の心の中で生き続けるわ。どうか……安らかに眠りなさい」
その言葉を聞いたのを最後に、俺の視界は完全な暗闇へと沈んでいった。




