第38話「【蠢動】夜明け前の静けさと、忍び寄る影」
「おはよう、東雲さん」
静まり返った夜の結婚式場で、二人の声だけが静かに響いた。
冷たい夜風が割れた窓から吹き込む中、腕の中の温もりを確かめるように見つめ合う。
「ふふ、おかしいですね。今は夜なのにね」
東雲さんが小さく吹き出し、俺も思わず釣られて笑ってしまった。
「ははは……、確かにね」
とうとう、戻ってこれたのだ。
あの眉唾美容外科で羽振と対峙した時と同じように、生命の危機に晒された極限状態で阿月の記憶の世界へと深く潜り込み、彼女の心の歪みを整えることができた。
これもすべて、俺の中に宿る康継さんのおかげなのだろうか。
「……康継さん、罪を償うのを手伝って欲しいって言っていましたよね。もしかして私、今ので少しはお手伝いできたのかな」
東雲さんがそっと胸元に手を当て、どこか祈るような表情で問いかけてきた。
「ああ、きっと手伝えたと思う。康継さんはきっと、昔の自分が阿月の苦しい心に気づいてやれなかったことに、ずっと自責の念を抱いていたんだと思う。でも……康継さんは今、俺の中にいるからなんとなく伝わってくるんだ。東雲さんに、心から深く感謝しているって」
俺のその言葉を聞いて、東雲さんがパッと顔を輝かせる。
「そうなんですか……! それは本当に良かったです。私も、康継さんのおかげでこうして無事に戻ってくることができましたし」
「そうだね。徳川家専属の伝説の刀工の力、恐るべしだね」
俺が感心するように言うと、東雲さんは首を小さく横に振った。
「康継さんだけの力じゃないですよ」
「え?」
「坂口さんが、誰よりも優しくて、誠実で、女の子の気持ちに寄り添える男性だからですよ。坂口さんが『阿月の心の歪みを解きほぐしてあげたい』って心から願っていたからこそ、阿月は救われたんだと思います」
「そう……、なのかな」
誰よりも優しくて誠実――そんな言葉を、今日、桜井さんにも言われた。職場の二大美女からそんなセリフを同じ日に聞くなんて、明日あたり俺は死んでいるんじゃないか?
「そうなんですよ。坂口さんは全然気が付いていないかもしれないですけど、そういう坂口さんの優しさと誠実さに惹かれている職場の女の子、結構多いんですよ? ……ちょっと胸の大きい誰かさんとかね! だから、私だって本当に油断できないんですから」
「ええっ!?」
あまりにも予想外の言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
俺なんて全然イケメンでもないし、モテているという自覚なんてこれっぽっちもない。そ、それってホントの話なのか……!?
目を白黒させて半信半疑になっている俺を見て、東雲さんは悪戯っぽく微笑んだ。
「その驚いた顔。ふふ……、いつもの坂口さんですね。良かった」
「なにそれ、俺がいつも驚いた顔をしてるってこと?」
「いいえ、裏表がなくて、心が澄んでいるって意味です」
「ああ、そういうことか。……おぎゃー」
「赤ちゃんですか!? それは流石に心が澄み過ぎじゃないですか!?」
「あはははは!」
極限の死闘の後とは思えない、和やかな笑い声がチャペルに満ちる。
――と、その時。
「……コホン。いい雰囲気のところ、悪いね」
バージンロードの床から、のそりと起き上がってきたのは寿々木先生だった。
頭をポリポリと掻きながら、気まずそうに眼鏡を押し上げている。
「さっきから意識は戻っていたんだけどね……どう見ても私が起き上がっていい空気じゃなかったから、ずっと伏せていたんだよ。だけど、このままだと際限がなさそうだったからね」
「「す、すみませんっ!!」」
二人は弾かれたように飛び退き、顔を真っ赤に染めながら同時に頭を下げた。
「いいんだよ、若いということは実に素晴らしいことだからね」
寿々木先生は温和に笑ったが、次の瞬間、その表情からフッと笑みが消え、鋭い真剣な眼差しへと切り替わった。
「……さて。坂口君と東雲さんのおかげで、阿月の本体の呪力はだいぶ弱まったようだ。しかし、完全に気配が消えたわけじゃない。それに……あの国広の霊が、このまま大人しく黙っているとも思えない。油断は禁物だ」
その一言で、チャペルの空気が一気に張り詰め、三人に再び冷たい緊張感が戻った。
(……そういえば)
俺はふと、胸の中に引っかかっていた違和感を思い返していた。
国広ほどの力を持つ怨霊が、新宿の眉唾美容外科からこのタワーに至るまで、なぜ目立った妨害工作を一切仕掛けてこなかったのか?
いとも簡単に俺たちをここまでたどり着かせ、阿月の精神世界にまで潜入させたのは、一体どういうつもりなんだ?
(まさか……阿月の呪縛が解かれることすら、最初から国広のシナリオ通りだったっていうのか……!?)
底知れぬ悪寒が背筋を駆け上がる。
その時――。
ステンドグラスを通り抜けた蒼白い月明かりが、荒れたチャペルの床を照らし出していた。
俺の足元に伸びる影。
三人ともまだ誰も気づいていなかったが――その黒い影の輪郭が、意志を持った生き物のように、不気味に蠢き始めていた。




