第37話「【解呪】心の鎖と、夜明けの目覚め」
「年貢の納め時だな、色男」
外れた右肘を押さえ、冷や汗を流しながら地面に膝をつく国広を見下ろし、俺は冷徹に言い放った。
『ぐ……ッ! お前は何者だ!? この俺に、こんな無礼を働いてタダで済むと思っているのか!?』
激痛に顔を歪ませながら、なおも傲慢に怒鳴り散らす国広。
そこへ、変装を解いた東雲さんが凛とした足取りで歩み出て、冷え切った視線を投げつけた。
「自分に惚れた女性の弱みに付け込んで、利用することに何の良心の呵責も感じない悪党が、よく吠えますね。……阿月さんに対して、悪いと思ったことは一度もないんですか? ようやく天罰が下る時が来た、ただそれだけのことじゃないですか」
『なんだと……ッ!』
東雲さんの痛烈な糾弾に言葉を詰まらせた国広は、柳の木陰で呆然と立ち尽くす阿月の姿を視界に捉えた。
その瞬間、男の表情がガラリと変わり、哀れみを誘うような必死の形相へと豹変した。
『あ、阿月! 阿月、そこにいるのか!? 頼む、俺を信じてくれ! 今言ったことは、全部こいつらに騙されて無理やり言わされたことなんだ! 俺は……俺はいつだってお前のことを一番に愛している!!』
「く、国広さん……」
おろおろと戸惑う阿月に向け、国広は情に訴えかけるような悲痛な叫びを重ねる。
『頼むよ、阿月……! こんなどこの馬の骨とも分からない、いきなり俺に暴力を振るうような連中の方を信じるのか!? ずっと愛し合ってきたこの俺より、奴らの言うことの方が信じられるって言うのか……!?』
国広の迫真の演技に、阿月の瞳が再び激しく揺らぎ始める。
胸の奥底に沈んでいたはずの情が、毒のように全身へ巡っていくのが自分でも分かった。
(そう、そうよ……。私を愛してくれている人を信じてあげなきゃ……)
阿月の指先が、着物の胸元を強く握る。
そんな阿月の様子を見て、東雲さんは一歩、静かに歩み寄り、阿月と国広の間に割って入るように立ち止まった。
夜風に揺れる柳の葉が擦れ合う中、東雲さんは阿月の怯えた瞳をそっと受け止め、胸の奥に直接触れるような穏やかな声で語りかけた。
「阿月さん。……差し出がましいかもしれないけれど、人を愛するっていうことは、本来こんなに苦しいことじゃないと思うんです」
「え……」
「自分を本当に大切にしてくれる人となら、『愛してる』なんて言葉で何度も確認し合わなくても、ただ隣にいるだけで安心できて、心が温かくなるものなんじゃないかしら」
東雲さんは夜風に髪を揺らしながら、阿月の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「『愛してる』という言葉は、時に人を縛りつける一番残酷な呪いにもなります。……もう一度、自分の心に正直に問いかけてみてください。あなたがずっと言われ続けてきたその言葉は、心からの愛情でしたか? それとも……あなたを逃げられなくするための鎖だったんじゃないですか?」
(『愛してる』は……呪縛……?)
阿月はその場に立ち尽くし、胸元を押さえて深く顔を伏せた。
『阿月! 惑わされるな! 俺はお前を愛している、お前だけなんだ!!』
国広は、なおも喚き散らして阿月を繋ぎ止めようとする。
阿月は顔を伏せたまま、その声をじっと聞いていた。
やがて――阿月は小さく息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げた。
その目からは止めどなく涙が溢れていたが、瞳の奥に宿っていた濁りは、完全に消え去っていた。
『阿月……! 分かってくれたんだな……!?』
国広が歓喜の笑みを浮かべ、抱きしめようと両手を広げて歩み寄る。
だが、阿月は静かに首を横に振った。
『……国広さん。私、もう限界です』
『え……?』
『もう、見てしまったのです。……今日、本当の愛の姿というものを』
素手で刃物に立ち向かい、愛する人を命懸けで守り抜いた男の姿。
そして、その想いに心からの信頼と笑顔で応えた女の姿。
自分がずっと求め続け、決して国広からは与えられなかった「本物の愛」の形を、阿月ははっきりと知ってしまったのだ。
『ごめんなさい、国広さん。……私、いま分かりました。あなたの呪いを振り払って、自分の足で立たなければいけないのだと』
『な……何を言っているんだ阿月!? もう少しなんだ、もう少しであの忌々しい康継の工房を――ッ!』
焦燥に駆られた国広が無理やり阿月の腕を掴もうと手を伸ばす。
だが――その手は、まるで煙を払うかのように、阿月の体をすり抜けて空を切った。
『なっ……!?』
ゴオオォォォ……ッ!
突如、空間全体が激しく軋み、セピア色の江戸の街並みが渦を巻くように歪み始めた。
「坂口さん……っ!」
「東雲さん、手を……!」
引き裂かれるような引力の中、俺と東雲さんは互いの手を強く握りしめ、白銀の渦の中へと呑み込まれていった――。
―――
ハッ……! と息を呑んで意識が浮上する。
鼻を突くのは、割れた窓から吹き込むタワー21階の冷たい夜風の匂い。
視界に広がったのは、荒れ果てた豪奢なチャペルの天井だった。
俺を羽交い絞めにしていた村瀬と加藤の腕から、完全に力が抜けていた。
二人はマリオネットの糸が切れたかのように、バージンロードの床へ「どさっ」と音を立てて突っ伏し、幸せそうな寝息を立て始めている。
そして――俺の目の前。
『魂歪湯』の缶を握りしめたまま、東雲さんの体を借りた阿月が、完全に動きを止めていた。
手から缶がポロリとこぼれ落ち、ドロリとした紫色の液体が床に広がっていく。
(……戻って、きた……? そうか、阿月の認知の歪みの根源にアジャストを入れたことで、阿月の呪力が急激に弱まったんだ)
カクン、と東雲さんの膝から力が抜け、前のめりに倒れ込んできた。
「っと……!」
俺は床に倒れそうになる東雲さんの華奢な体を、咄嗟に両腕でしっかりと受け止めた。
腕の中に収まる、温かくて確かな重み。
そのまましばらく、静まり返ったチャペルの中で彼女を抱きかかえていた。
やがて、腕の中の彼女が小さく身じろぎをし、ふわりと長い睫毛を震わせて目を開けた。
見上げた瞳には、あの邪悪な紫の光は微塵もない。
誰からも愛される、澄み切った陽だまりのような光をたたえた彼女が、俺を見上げていた。
彼女はふにゃりと、心底安心したようににっこり笑った。
「……おはよう、坂口さん」
俺も張り詰めていた肩の力を抜き、涙が出そうになるのを堪えながら笑い返した。
「おはよう、東雲さん」




