第36話「【暴露】偽りの逢瀬と、悪夢の覚醒」
(……愛する人のためなら、死ねる……?)
路地裏の物陰で、阿月は自分の胸元をぎゅっと掻きむしり、その言葉を反芻していた。
坂口が命懸けで東雲を守った姿を目の当たりにし、阿月の脳裏に国広と過ごしてきた日々の記憶が次々と去来する。
(思い返せば……私、国広さんに何かしてもらったことなんてあったかしら……?)
いつも与えてばかりだった。
休日は「刀鍛冶の修行がある」「大名の使いが来る」などと理由をつけられて絶対に会えず、会える時間も平日の夜更けなどに妙に限定されていた。
彼の長屋や仕事場を一度には入れてもらえず、彼の友人や職場の人間に会ったことはない。もちろん、両親や親族に紹介されたことは一度もない。
考えてみれば、知っているのは、お互い極貧の生まれで懸命に生きてきたということぐらいだ。それでも、心と心は通じ合っていると思っていた。
でも……。
(妙に秘密が多すぎる……。やっぱり、あの子の言う通り私は……。い、いや……違うわ! 国広さんは天下無双の刀工を目指すお方なのよ! 余計な雑音を避けるために私を隠してくれているんだわ……! そうに決まってる……!!)
阿月は無理やり歪んだ理屈を脳内に打ち込み、必死に自分を納得させた。
ふと路地に目をやると、昼間に会った奇妙な格好をした女が、倒れ伏した浪人たちを見下ろしながら、「いいこと思いついちゃいました」と呟くのが見えた。
見れば、その女はボス格の浪人の腰から脇差を引き抜き、「うふふふふふ」などと笑っている。浪人たちを見下ろすその顔には、残酷な笑みが貼り付けられているような気がする。
(あの女……まさか倒れた無頼漢たちに報復する気!? 綺麗な顔をして、やることはえげつないわ……!わ、私、血を見るのは嫌いなのよ!)
血生臭い現場は見たくないと、阿月は急いでその場を立ち去った。
――その日の夜。
居ても立ってもいられなくなった阿月は、吸い寄せられるように武家屋敷の周辺へと足を運んでいた。
精神の限界が近づいている。足元はふらつき、視界もかすんでいる。
その時、暗がりの中で、頭から被衣をすっぽりと被った武家娘――美代姫らしき姿が目に入った。
そこへ、闇の中から颯爽と国広が現れ、慣れた手つきで美代姫の肩を抱き寄せ、二人で静かに歩き始めた。
(あ……あぁ……っ!)
心臓が早鐘を打つ。阿月は崩れ落ちそうになる膝を必死に奮い立たせ、二人の後をふらふらと追った。
人通りのない柳の木の下で、国広が美代姫を優しく引き寄せ、甘く囁く声が聞こえてきた。
『なあ美代……そろそろ、いいだろう? 俺はお前だけを心から愛しているんだ』
国広は、美代姫の胸にそっと手を寄せた。
美代姫は被衣の奥から、くすりと妖艶に笑ってみせた。
『ふふ……本当かしら。国広様、阿月という娘にも同じような甘い言葉を囁いていらっしゃるのではありませんこと?』
阿月の息が止まった。
柳の陰で爪を食い込ませ、祈るように国広の言葉を待つ。
だが、国広の口から返ってきたのは、阿月の魂を完全に粉砕する冷酷な嘲笑だった。
『はっ、阿月のことか? あんな日焼けして痩せこけた、胸ばかり無駄にデカい下品な農民の娘など、ただの便利な道具にすぎんさ。俺が命じれば何でも言うことを聞く、哀れな捨て駒だよ』
ドスッ……!
阿月の頭の中で、何かが音を立てて完全に崩壊した。
視界が真っ白になり、血の気が完全に引いていく。
阿月が血ヘドを吐いて、守り抜いてきた『嘘の世界』が粉々に砕け散った瞬間だった。
「ふふ、あなたの口からその言葉が聞けて良かったです」
『当たり前だろう。俺が真に愛しているのは、美代、お前だけだ。……ん? ところで美代、お前……今日はなんだか、少し頭が汗臭いな? どうしたんだい?』
「あら、失礼ですね。でもそうかもしれません。私、ショートカットなので武家の髷が結えなくて……路地裏で転がした、不潔な無頼漢の髷を切り落として作った特製ウィッグを被っていますから。……それよりも、今の話聞いていましたか、阿月さん?」
(え!? わ、私!?)
物陰に隠れていたところに突然名前を呼ばれた阿月があたふたしていると、美代姫は被衣と髷をバッと脱ぎ捨て、爽やかなショートカットを夜風になびかせた!
『なっ……!? 美代じゃない……!? お前は誰だッ!?』
「本物の美代姫なら、心配性なお父上に見つかって屋敷に軟禁中だってさ。さっき門の前で聞いてきたぜ」
闇の中からぬっと姿を現したのは、破れたスーツの胸元を晒した俺(坂口)だった!
『な、なんだお前は!?』
逆上した国広が、咄嗟に強烈な裏拳を俺の顔面へ向けて振り抜く!
だが、俺はその大振りの軌道を軽やかにダッキングでかわし、ガラ空きになった国広の右肘の内側へ、指先を鋭く突き刺した!
パキィンッッッ!
『ぐああああっ!? 肘が……!』
叫び声をあげ、未知の痛みにもだえ苦しむ国広。
脂汗を垂らしながら右肘を抑え、自分を睨みつける国広に対して、俺は冷徹に言い放った。
「年貢の納め時だな、色男」




