第4話:【悲報】俺のストレートネック、歪みすぎて悪霊を呼び寄せてしまった件
築何年だか分からない、雑居ビルの三階。
エレベーターの扉が開いた瞬間、漂ってきたのは湿ったお線香と、熟成された湿布が混ざり合ったような、なんとも言えない辛気臭い匂いだった。
廊下の突き当たりにある曇りガラスのドアには、剥げかけた文字で『寿々木治療院』とだけ書かれている。
(……えっ、帰りたい。今すぐ、駅前の明るいリラクゼーションサロンに逃げ込みたい……)
坂口は、ドアの前で激しく後悔していた。
……思えば、ここに来るまでの道のりも災難続きだった。
会社で上司の課長に「体調不良で早退します」と申し出たところ、「最近の若い奴は根性が足りん! 体調管理も仕事のうちだぞ!」と昭和の根性論で一蹴されかけたのだ。
しかし、その課長が俺を説教するために「喝!」と身を乗り出した瞬間――。
『ピキッ……!! グギャァァァァッ!?』
見事なまでの音を立てて、上司がぎっくり腰を発症。あまりの激痛に涙目になった課長は、「こ、この痛みは……!お前も苦しいんだな……。わ、分かった。行ってよし!!」と震える手で早退届を受理したのだった。
(あの課長のぎっくり腰も、もしかして邪な者の仕業なのか……? でも、邪な者は俺を整体に行かせまいとしているから違うか……。単なる偶然か、加齢と運動不足だな)
そんな出来事を振り返りつつ、俺は意を決して、がたつく引き戸を開けた。
ちりん、と気の抜けた風鈴の音が響く。
「……あの、やってますか……?」
「……あぁ、どうぞ……」
受付の奥からヌッと現れたのは、絵に描いたように陰気な整体師だった。
年齢は四十代半ばほど。ヨレヨレの白衣を着て、目の下にはどす黒いクマがある。ボサボサの髪に低い声。
(この先生自身が一番整体受けた方がいいんじゃない!?)
内心で突っ込みつつ、俺は案内されるまま、うつ伏せ用の穴あき枕がついた施術ベッドに横たわった。
整体師の先生が俺の首筋に触れた瞬間、その動きがピタリと止まる。
「……お客さん、これ、いつからですか」
「えっ、あ、ここ一ヶ月くらいデスクワークが忙しくて。やっぱりひどいストレートネックですか?」
「ストレートなんてものじゃない。首の関節が完全にロックされている。……これでは脳が常に緊張状態になり、体は休まっていないはずです」
「ここまでひどいのに、今日まで普通に仕事ができているのは、よっぽどすごい守護霊がついているおかげだと思います。仕事熱心な霊でしょうね。集中力抜群の、伝説級の刀工の守護霊かもしれません」
先生はさりげなくぶっ飛んだことを言いながら、俺の首から肩甲骨にかけての関節を的確に捉え、スッと絶妙な圧をかけた。
「ぐっ……!?」
「眠りも浅いでしょう。眠りが浅い原因の多くは、日中の姿勢不良による首や肩の緊張にあります。首の骨のアーチが崩れると、寝ている間も首の筋肉が緊張し続け、疲労が抜けない」
理路整然と、しかしどこか的を射た整体師の解説に、俺は思わず「はぁ……」と生返事を返す。
だが、その直後だった。
ゴキッ、ボキボキッ! と、背骨の隙間に溜まっていた何かが解放されるような、激しいけれど心地よい音が響き渡る。
「――っ!?」
瞬間、頭を縛り付けていた万力のような痛みがスッと引き、視界が一気にクリアになった。
まるで、何年もの間濁っていた脳のフィルターが、一気に洗い流されたような感覚だ。呼吸が異様なほど深くできるようになり、凝り固まっていた背中や腰の筋肉が、まるで雪解け水のようにフニャァと緩んでいく。
すごい……! なんだこれ、体が勝手に正しい位置に戻ろうとしている……!
「どうですか。これが、本来の正しい骨格と関節の可動域です」
整体師は俺の劇的な改善を見て満足するどころか、なぜか急に動きを止め、不気味に眉間を寄せた。
そして、俺の背骨に再び耳を当てるようにして、ぼそりとつぶやいた。
「……おかしい。整ったはずなのに、まだ奥の方で微弱な『金属音』のような波長が残っている……」
「え? 先生、何か言いました?」
「……いや。この歪み……おかしい。綺麗に調律したはずの骨格のなかに、まるで別の意思が居座っているような……」
整体師は冷や汗を一つ流し、信じられないものを見る目で俺の背中を見下ろした。
「――この歪み……、もしかして『もう一人』居るのか……?」
「は……? もう一人って、誰がですか……!?」
治療院の薄暗い空気の中、整体師のただならぬ呟きに、俺の背筋に冷たいものが走るのだった。




