第34話「【追跡】茶屋の噂話と、狭間の受難」
武家屋敷沿いの茶屋の周りには、朝の往来を行き交う町人たちのざわめきが満ちていた。
通りを歩く町娘や行商人たちの口から、自然と漏れ聞こえてくるのは、今この界隈で持ちきりの噂話だ。
「聞いたかい? あの刀工の国広様、またあのお屋敷のお嬢様と逢瀬を重ねてらっしゃるそうだよ」
「まあ! あの絶世の美男子の国広様なら当然よねえ。何人もの女が言い寄ってるらしいけど、あの器量良しで名高い美代姫くらいじゃなきゃ、到底釣り合わないわよ」
そんな世間話が風に乗って耳に届くたび、茶屋の縁台に座る阿月は、痛々しいほど肩を震わせていた。
やがて、通行人の何人かが縁台に一人佇む阿月の存在に気づき、袖で口元を隠しながらヒソヒソと嘲笑を交わし始める。
「見てごらんよ、あの女……まだあんなところで待ってるよ」
「哀れなもんさね。国広様にいいように使われてるだけだって、周りはみんな知ってるのに……」
『――聞こえない、何も聞こえない……!』
阿月は両手で耳を強く塞ぎ、目を固く閉じて必死に首を振っていた。
自分自身に嘘をつき続ける限界の姿。
そこへ一人の女性が静かに歩み寄り、阿月の正面の席に腰掛けた。
「いいお天気ですね。朝の風がすごく気持ちいいです」
唐突にかけられた爽やかな声に、阿月は驚いて顔を上げ、耳から手を離した。
明らかにこのあたりの住人ではない、まるで異世界から抜け出してきたような雰囲気の美しい女性。
阿月は警戒して身を引く。
「……誰よ、あなた」
「通りすがりの者です。……あ、お団子美味しそうですね。一本もらってもいいですか?」
東雲さんはふわりと柔らかく笑い、注文したお茶を一口すすった。
そして、縁台の端に置かれた阿月のぎゅっと握りしめられた拳をそっと見つめながら、ぽつりぽつりと自分のことを話すように言葉を紡ぎ始めた。
「私ね、遠いところから来たんです。……実は、私のいる場所にも、すごくかっこよくて仕事もできて、みんなから憧れられている人がいるんですよ。周りの人がみんな夢中になっちゃうような、すっごく素敵な人」
「……何よそれ。自慢話?」
「ううん、全然違います」
東雲さんは苦笑いしながら首を横に振った。同じ痛みを分かち合うように、少し困ったような、優しい笑顔を阿月に向ける。
「そういうキラキラした人に惹かれちゃう気持ち、私、すごくよく分かるんです。素敵に見えるし、自分だけを特別にしてくれたら嬉しいし……周りから何を言われても、『あの人は本当は優しいんだ』って信じたくなるんですよね。……でもね、そうやって相手の顔色ばかり気にして、嫌われないように必死になってると、いつの間にか息をするのも苦しくなってきちゃいませんか?」
阿月がピクリと肩を跳ねさせた。
「周りの噂に耳を塞ぎたくなるのも、本当は怖くてたまらないからですよね。……信じたいのに、心のどこかで『嘘かもしれない』って疑っちゃう自分がいて、そんな自分が一番嫌になる。……私も昔、同じように無理して笑っていたことがあるから、なんだか他人事に見えなくて」
阿月の瞳が激しく揺れた。自分と同じ痛みを抱えたことがあるかのような眼差しに、心の奥を直接触れられたような動揺が走る。
しかし――目の前の女の透明感のある美しさと凛とした佇まいを直視した瞬間、阿月の胸にどす黒い劣等感と拒絶が爆発した。
「……嘘よ。あんたなんかに、私の気持ちが分かってたまるもんですか!」
阿月はバンッと机を叩いて立ち上がった。
「あんたみたいに綺麗で、何もしなくたって周りから愛されるような女に……私の何が分かるっていうのよ! 私と国広さんの絆を、通りすがりのあんたが分かったような顔で語らないで!」
「阿月さん、待って……!」
東雲さんの制止を振り払い、阿月が走り去ろうとする。
そこへ物陰から俺が慌てて飛び出した。
「待ってくれ、阿月!」
「なっ……!?」
正面から現れた俺の顔を見た瞬間、阿月は息を呑み、目を見開いた。
「あ……や、康継さん……!?」
「え?」
「あ……、人違いでした! ごめんなさい!」
阿月はそう言うと、取り乱した様子で路地の奥へと脱兎のごとく駆け出していった。
「あ、ちょ、ちょっと待てって!」
呆然と立ち尽くす俺のもとへ、東雲さんが駆け寄ってくる。
「坂口さん、阿月さんは!?」
「あ、あっちの路地に逃げた!」
「追いかけましょう!」
東雲さんは元陸上部の本領を発揮し、オフィスカジュアルのパンプスとは思えない凄まじいスタートダッシュで俺の前を疾走していった。
(東雲さん、めちゃくちゃ速い……! 本気で走らないと置いていかれる!)
だが、入り組んだ長屋の路地を抜けた先、阿月を見失った場所で、二人の前に極端に狭い建物の隙間が立ちはだかった。板塀と土蔵の間にできた、人が一人やっと通れるかどうかの細い抜け道だ。
「阿月は、ここを抜けたのかも……! 坂口さん、行ってみましょう!」
細身の東雲さんは、体を滑り込ませるようにしてスルリと隙間を通り抜けていく。
「お、おう! 俺もすぐ……ぐっ!?」
東雲さんの後に続こうと隙間に飛び込んだ瞬間、俺の進行がピタリと停止した。
ギチッ……。
「……ぬ、抜けない!?」
高校時代にサッカーで鍛えた筋肉の上に、社会人生活とストロングゼロで蓄積されたビール腹が、板塀と土蔵の壁にガッチリと挟まり、見事なまでにスタックしてしまったのだ!
先に隙間を抜けた東雲さんが、振り返って焦ったように声をかけてくる。
「坂口さん、すみません! 阿月を見失っちゃうので、私、ちょっと先に行って探してきますね!」
「えっ、あ、東雲さん!? 待っ……!」
東雲さんは振り返りもせず、パタパタと軽快な足音を立てて路地の向こうへ走り去ってしまった。
取り残され、壁の間にガッチリ挟まった俺は、手足をジタバタさせながら虚空へ向かって絶叫した。
「うわああぁぁぁ、くそおおぉぉぉ!! カッコ悪すぎるだろ俺ェェェ!! 全部深夜の暴飲暴食とストロングゼロのせいだァァァッ!!」
必死に腹をへこませてもがく俺の耳に――。
東雲さんが走っていった薄暗い路地の奥から、不穏で下卑た男たちの笑い声が微かに響いてきた。
「へへへ……今走り抜けていったの、見ねえ顔の上玉じゃねえか」
「ああ……、あれは相当な高値で売れるぜ」
「けけけ、その前に俺たちでたっぷり楽しもうぜ……!」
「野郎ども、いつも通りいくぞ……」
背筋がぞくりとした。
ここら一帯を縄張りにしている無頼集団に、東雲さんが目を付けられてしまったらしい。
(く、くそっ!! お前ら、ぶっとばしてやる!! ……そ、その前にこの隙間から絶対出てやるんだからね!!)
俺はそう誓い、腹が木の板でこすりつけられる痛みに耐えながら漸進するのだった!




