第31話「【残影】歪みの過去と、目覚めのマドンナ」
『――……さん……本当に、私のことを大切に思ってくれているの……?』
気がつくと、俺の視界はセピア色の過去の風景へと切り替わっていた。
目の前で、着物を着た若い女が不安げに眉を寄せ、震える声で決死の問いかけをしている。
日中の厳しい農作業のせいか肌は浅黒く焼け、十分な栄養を摂れていないのか手足は痛々しいほど細い。その痩躯に対して、あまりにも豊かすぎる胸がひどくアンバランスな印象を与える女性。
(これが……生前の阿月なのか……!?)
『――ああ、もちろんだ。……なぜ、そんなことを聞くんだ?』
阿月の問いに優しく応えたのは、男の俺ですら思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの絶世の伊達男だった。
恐ろしいほどに彫りの深い端正な美貌。身長は優に六尺(180cm)を超え、見事な逆三角形の広い肩幅に、粋な着物を羽織っている。
立ち振る舞いの端々から、「この世の女が自分に惚れるのは当然」と言わんばかりの傲慢で抗いがたい魔性のフェロモンを放っていた。
(こいつが……国広……!? 確かに、とんでもないイケメンだ……!)
あまりにも完璧すぎる美男子。
しかし、その非現実的なまでに美しい外面とは裏腹に、どことなく腹に一物を抱えていそうな雰囲気があった。
そう、まるでその見た目で、とても直視できないほど、どす黒く濁り切った内面を隠しているかのような――。
『――ううん、なんでもないの。ごめんなさい……。ただ……』
阿月は消え入りそうな声で俯いた。
『――ただ?』
『――同じ村のユキちゃんがね、「阿月、あんた騙されているよ」って言うの……。本当に好きな女なら、他の男を誘惑するための道具に差し出したりしないって……。でも、そんなことないよね……? 国広さんは、私のことを心から愛してくれているのよね……!?』
阿月の悲痛な訴えを聞いた瞬間、国広の眉間が一瞬だけピクリと険しく跳ね上がった。
だが次の瞬間には、手慣れた手つきで蕩けるような甘い笑みを浮かべ、阿月の痩せた肩を優しく抱き寄せた。
『――ああ、もちろんだ。まったく、ユキのくだらない嫉妬には困ったものだな』
国広は阿月の耳元で、甘く囁きかける。
『俺が、徳川家から正当な評価を勝ち取り、あの忌々しい康継の工房を完全に叩き潰せたら……阿月、俺はお前だけを一生愛し抜くと誓う。これは二人だけの約束だ』
耳触りのいい言葉で、手慣れた様子で女の心をほだしていく。
その言葉を聞いた瞬間、阿月の曇りきっていた瞳に、パッと光が戻っていった。
『――本当!? ……嬉しい……っ!!』
国広はダメ押しのように極上の慈愛の笑みを浮かべ、阿月の頬に触れた。
『――当たり前だろう? だから阿月、今は他の人間の戯言に耳を貸すな。俺の言うことだけを信じ、俺が見ろと言った世界だけを見つめろ。……それが、俺たち二人が永遠に結ばれる唯一の道なんだ』
それを聞いた阿月の瞳には、ほんの一瞬だけ戸惑いの色が見えたが、すぐに満面の笑みに取って代わられた。
『――分かったわ……! 分かったわ、国広さん……!』
「いい子だ」と阿月の頭を撫でた国広は、背を向けた瞬間に冷え切ったため息を吐き出し、足早に闇の中へと歩み去っていった。
取り残された阿月は、どこか胸の奥のざわめきを振り払えないまま、夜道を一人とぼとぼと歩いて長屋の自宅へと帰っていった。
ガラリと粗末な引き戸を開けて家の中に入る阿月。
「……ただいま。まったく、暗がりで何をごそごそやって……って、あんた!」
薄暗い行灯の明かりの下で、阿月の弟が畳に突っ伏し、荒い鼻息を荒らげていた。
手元に広げられているのは、以前に亡き父が江戸の日本橋でこっそり大枚をはたいて買い込んできたという、絵師の手による一点ものの肉筆春画――極彩色の『笑絵』の巻物だった。
「はぁはぁ……! 見ろよこの流麗な筆致、寛文美人を思わせる切れ長の目元……たまらん! お絹たん、今日もなんて艶めかしいんだ……デュフフッ!」
「ちょっと! あんた、またお父さんの大事な春画を引っ張り出して……! 少しは畑に出て働きなさいよ、このオタク!」
阿月が仁王立ちして怒鳴りつけると、弟は面倒くさそうに顔を上げ、鼻を鳴らした。
「オタクとは失礼な! 小生は江戸の最先端の風俗絵画を美術鑑賞しているだけなのである! 大体、姉君こそまたあの国広の旦那のところへ行ってたんでありましょう? いい歳して、色街の真似事みたいなことしてるんじゃないであります!」
「なっ……! 国広さんはね、天下の刀工として大成するために命を懸けているのよ! あんたみたいな部屋に引きこもって絵草紙ばかり眺めてる穀潰しとは月とスッポンよ! 同じ人間の男なのに、どうしてここまで天と地ほど違うのかしらね!?」
ヒステリックにまくし立てる阿月に対し、弟は春画を胸に抱きかかえ、やれやれと首を横に振った。
その目は、妙に冷静で冷徹だった。
「姉君……男なんて、みんな根っこは同じなのであります。国広の旦那だって、表向きはめちゃくちゃイケメンで口が上手いですが、中身は小生と同じ……いや、欲の深さで言ったら小生なんかよりずっとずっとタチが悪いと思われるのであります」
「なんですって!?」
「本当のことであります。大体……近頃、大身の武家屋敷の箱入り娘の『美代姫』と国広の旦那が、いい仲になってるって噂で持ちきりなのであります。 小生もこの前、武家屋敷近くの夜道であの旦那がそのお嬢さんと仲睦まじそうにしっぽり歩いてるのをたまたま見かけたのであります。ぐふふ……、フォカヌポウww」
弟は視線を真っ直ぐに阿月に向け、トドメの一言を突き刺した。
「姉君……、国広の旦那に体よく騙されて使われてるだけなんじゃないの? であります。そろそろ現実を見て――」
「黙りなさいッッッ!!!」
ブチ切れた阿月の叫び声が長屋に響き渡った。
逆上した阿月は弟の手から肉筆春画を力任せに奪い取ると、激情のままに――ビリビリィッ!と真っ二つに引き裂き、さらにズタズタに破り捨てた!
「ああっ!? 俺のお絹たんがァァァッ!! な、何しやがるんだこのヒス女! もういい、こんな家やってられるか! 小生はこれから吉原へ行って本物の女と遊んでくるからな!! であります!!」
弟は破片をかき集めようとして諦め、激昂して草履を引っ掛けると、戸を乱暴に叩きつけて飛び出していった。
散らばる春画の残骸の中、一人ぽつんと取り残された阿月。
静まり返った暗い部屋の中で、阿月は立ち尽くし、虚空を見つめながら壊れた人形のように呟いた。
『――私は、何も疑ってはいけない。……国広さんと私の仲を引き裂こうとする邪な者が見せる現実なんて、全部消してしまわなきゃ……。そんなもの、全部歪んでいるんだから……! そうすれば、私たちの幸せな未来は実現するんだから……!!』
阿月の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
胸の奥から湧き上がる「騙されている」という耐え難い真実を、自分自身の認識をねじ曲げ、世界を歪めることで、必死に押し殺していたのだ。
(これが……阿月の歪みの原点なのか……)
何百年もの間、国広という男に利用され、騙されている自分から目を背けるために、世界の構造そのものを歪め続けてきた悲痛な執念。それこそが、彼女の凶悪な呪力の源だったのだ。
泣きながら、ブツブツと狂気の独り言を呟きながら去っていく阿月の後ろ姿を、俺は胸を締め付けられる思いで見つめていた。
俺は、何と声をかけていいか分からず、トボトボと重い足を引きずって阿月の家から出て行った。
(この何百年もかけてガチガチに固まった魂のコリ……、俺だけでほぐせるのか?)
自信を喪失しかけて、江戸の夜の農村を歩いていたその時だった。
江戸の原風景の暗闇の向こうから、聞き覚えのある軽快な足音がパタパタとこちらへ近づいてくるのが見えた。
(ん……? まさか、あのシルエットは!?)
「坂口さーん! 昨日ぶりですね!」
透き通るような明るい声。
ショートカットが似合う凛とした佇まい。
白いスーツに身を包み、人懐っこい笑顔で手を振って駆け寄ってきたのは――。
「し……東雲さん!? なんで東雲さんが、ここにいるの!?」




