第27話「【崩壊】熱力学の魔女と、気化する猛毒」
「分かったわ。私が最後の仕上げをしてあげる。……もう少しだけ待っていてね、国広さん……!」
そう艶やかに囁くと、阿月は東雲さんの身体の胸元へと、すっと白い指先を滑り込ませた。
オフィスカジュアルのブラウスの隙間から覗く柔らかな谷間が一瞬露わになる。
(う、うわわわわわ……! あれが東雲さんの……!)
俺の煩悩センサーが思わず反応して鼻血が噴き出しそうになる。
(ぐっ……! ダメだ、中身は数百年分の怨念だぞ! 理性を保て俺の新NISA!!)
必死に邪念を振り払う俺の前で、阿月は妖艶に微笑んだ。
「ふふ……!」
胸元から取り出されたのは――氷のように冷気を放ち、禍々しい漢字が並ぶあの怪しい缶。
「魂歪湯……!」
「あら、知っていたの? もしかして国広さんから聞いたのかしら? なら、話が早いわね」
阿月はヒールを鳴らしてつかつかと歩み寄り、床にへたり込む俺の目の前に『魂歪湯』を突き出してきた。
「う…!」
触れられているわけでもないのに、全身を押し潰されそうなほどの圧倒的なプレッシャーを感じ、金縛りに遭ったように身体が動かない。
「これを飲みなさい。そうすれば……この宮司の末裔の命だけは助けてあげるわ」
「う……、坂口くん……! 私に構わず……逃げるんだ……!」
床に倒れた寿々木先生が、血を吐きながら絞り出すように叫ぶ。
俺は喉を鳴らし、目の前の阿月を睨みつけた。
「……阿月。俺がこれを飲んで、国広がお前らの望み通り完全に目覚めたら……一体どうなる?」
「あなたには関係のないことだわ」
阿月は冷ややかに言い捨てたが、すぐに夢見るような恍惚の表情を浮かべて両手を胸の前で組んだ。
「でも、一応教えてあげる。……国広さんと私は永遠に結ばれ、国広さんが望むこと全てが実現されるの。あの人が憎む全てを破壊し、あの人が望むように世界を創り変える……。ああ、本当に素晴らしい世界になるでしょうね……!」
うっとりと陶酔する阿月。
その狂気と歪んだ独善性に、俺の頭は完全に冷え切った。
「……ごめん、先生」
俺は呟き、鋭く息を吸い込んだ。
「交渉は決裂だ!!」
床を強く蹴り上げ、戦闘モードへ一瞬でシフトする。
俺の手拳が、阿月の骨格アライメントを捉えて一直線に突き出された!
「極技・超高速骨膜矯正!!」
だが、阿月は上半身をわずかに反らせてその一撃を紙一重でかわした。
そして、手のひらに乗せた『魂歪湯』の缶を顔の前に掲げると――ふうっ、と色っぽく紫色の吐息を吹きかけた。
パキパキ、ジュワワワッ……!
「……なっ!?」
阿月の吐息を受けた金属製の缶は、みるみるうちに崩壊し、中のどす黒い液体が一瞬で蒸発して空間から掻き消えてしまったのだ。
(ヤバい……!!)
長年のSE生活で培った危機察知と、研ぎ澄まされた職人の直感が警報を鳴らす。
俺は脊髄反射でバックステップを繰り出し、全力で間合いを取った。
「これはまさか、物体の無秩序さ――『エントロピー』を局所的に増大させているのか!?」
「ふうん、結構速いじゃない? どうやったのか知らないけれど、昼間に会った時とはまるで別人ね。……でも、無駄なことよ」
阿月が薄ら笑いを浮かべた瞬間、俺の鼻腔が強烈な危険信号をキャッチした。
空中に気化して溶け込んだ『魂歪湯』の成分が、目に見えない毒の霧となって俺の周囲に漂っている!
俺は慌ててその場から横へ飛び退いた。
しかし、着地した先でも全く同じ甘く焦げ付いた鉄の臭いが立ち込め、俺は咄嗟にワイシャツの袖で口と鼻を強く覆った。
「ふふふ……。物体の魂はね、自分の本来の形を覚えているのよ。そして、本来の姿からズレて無秩序にさまよい始めた物の魂は……全て私の意志を実現するための下僕となるのよ!!」
「なに!? ……はっ!」
阿月のその言葉に呼応するように、空気がいくつもの小さい渦を作りながら歪み始めていた。
その渦は何か固形物を形成するように凝縮し、やがて俺が普段からよく見ている物体となって浮かび上がった!
「これは……、鍼治療の鍼!?」
ASMRガチ勢としては外すことのできない、『鍼治療の動画』で何度も見た直径0.2mmほどの針だ。
その無数の鍼がくるりと先端を俺に向け、猛烈な勢いで飛んできた!
「うおおおおっっっ!!!!?」
カンカンカンカン!!!!!!
鍼が無駄に豪華なVIP専用カンファレンスルームの壁や床に突き刺さり、その音がこだまする。
「うわああぁぁ……、あぶねええぇぇぇ!!!!」
間一髪で避けられたが、その後も冷や汗が止まらない。
先端が非常に細く、刺すというよりも痛みなく滑るように人体に入っていく設計の治療鍼は、リラクゼーション効果も非常に高く、眠ってしまう患者が続出する。
しかし、阿月が魂歪湯で作った毒々しい紫色をしたその鍼は、一度それで眠ってしまったら二度と起き上がって来られず、三途の川を渡らされることになるだろうと直感させる禍々しい念を放っていた。
(くっ……、鍼治療一回やってみたかったけど、こういうのはやっぱ嫌だな……!)
脳内で勝手に再生され始めた、森田先生の神動画『特別番外編:鍼治療と整体のコラボレーション』を強制停止し、目の前の敵を見据える。普段ならば、そのまま寝落ちしたいところだが、今はそうはいかない。
「……!?」
俺が体勢を整えて前を見据えた時、阿月は、フロアの隅に置かれていた大型の観葉植物の鉢植えにすっと指先を触れていた。
ジュワッ……!
触れた瞬間、青々としていた観葉植物が一瞬で真っ黒に枯れ果て、崩れ落ちて空気に溶けるようにして消え去った。
「消えた……!?」
周囲を油断なく見渡した、その刹那――。
ギチギチギチッ……!!
足元に凄まじい締め付けの違和感が走った。
「なっ……!?」
見下ろすと、床のタイルを突き破り、先ほど消えたはずの観葉植物の太い根が、幾重もの禍々しい渦巻きを形成して俺の両足首をガッチリと拘束していたのだ!
「観葉植物の根が……床から!?」
拘束され、身動きが取れなくなった俺の正面から、阿月が妖艶な笑みを浮かべ、俺を捕らえようと音もなく突進してくる!
その手元には、ドス黒い呪力の爪が光っている。
(落ち着け……! 焦るな……コードのバグを解くように、構造を見極めろ……!!)
俺は極限の集中状態で精神を沈め、両足に絡みつく根の『歪みの結節点』に目を凝らした。
(見えた――!)
無理やりにねじ曲げられ、エントロピーを強制増大させられた歪みの核!
「ふっ……!」
俺はしゃがみ込み、両足首の根の急所へ、正確無比なアジャストの打撃を撃ち込んだ。
パキィィンッ!
調律された根は本来の植物の素直な繊維へと戻り、拘束の力を失った。
そのまま床を激しく前転し、阿月の伸びてきた爪の間合いから間一髪で転がり出る!
その直後――、
グシャアアァァァ!!!
と派手な音を立てて、コンマ一秒前まで坂口がそこで捉えられていた観葉植物の拘束具は粉々になった。
「ハァッ……ハァッ……!」
距離を取り、息を荒げながら俺は阿月を見据えた。
「物体のエントロピーを支配して、その霊魂を自在に操る……。歪みの支配の究極とも言えるこの能力が、東雲さんの強い霊媒体質を得て増大された、今の阿月の力なのか……!?」
阿月は空振りに終わった自分の手を見つめ、紅い唇を歪めてクスクスと喉を鳴らした。
「ふふふ、あなた本当に速いわね。……でも、次は逃がさないわよ」




