第26話「【浸食】物の声と、残酷なる手土産」
夜のオフィス街を切り裂き、大手町へと疾走するタクシーの車内。
後部座席に揺られながら、俺は自分の手のひらをじっと見つめていた。
異変は、新宿の羽振の医院に着いた時から感じていた。
でも、羽振との闘いの後、その異変はどんどん顕著になっていった。
五感が、異常なまでの密度で研ぎ澄まされていく。
最初は、タクシーのシートの革の軋みや、エンジンの微細な振動のリズムがやけに鮮明に聞き取れる程度だった。
だが今は――もっと深い、言葉にできない「波長」のようなものが脳裏に流れ込んでくる。
(これは……?)
指先でタクシーのドアノブの金属にそっと触れる。
すると、その冷たい鉄の内側から、鋳造された時の熱や、日々の開閉でわずかに歪んだ金属疲労の叫びが、まるで「声」のように直接神経に伝わってきた。
車のフレーム、窓ガラス、道路のアスファルト。
世に存在するあらゆる物質が、自らの歪みと、本来あるべき正しい姿を、俺の魂に向かって切々と訴えかけているかのようだった。
まるで、何十年も鉄と炎に向き合い続け、万物の声を聞き分けてきた職人の感覚が、俺の肉体に直接インストールされていくような――そんな底知れない感覚。
だが、神秘的な全能感に浸っている余裕はなかった。
俺の脳裏に、拭い去れない疑問が浮かび上がる。
(……なぜだ?)
国広は電話口であれほど尊大に言い放っておきながら、なぜ俺たちが大手町グランドセントラルタワーへ向かうのを、これほどあっさりと見逃しているのか。
まだ奴の力が完全ではないからなのか?
それとも……俺たちがタワーに辿り着くこと自体が、奴の描いたシナリオ通りだというのか……?
「お客さん、着いたよ! これ以上は規制線があって近づけねえ!」
運転手の切迫した声で、俺は思考から引き戻された。
タクシー代を支払い、桜井さんと共に外へ飛び出す。
ビルの周囲は、赤色灯を回すパトカーや消防車、無数のマスコミと野次馬でごった返していた。見上げる先には、闇夜にそびえ立つ37階建ての巨塔。
20階付近が異様な角度でねじ曲がり、ビル全体から立ち上るドス黒い怨念の瘴気が、まるで巨大な黒煙のように夜空を覆い尽くしている。
「行こう、桜井さん!」
「はいっ!」
規制線の混乱と警備の隙間を縫い、俺たちは意を決してエントランスの自動ドアを突破した。
だが、ビル内に足を踏み入れてしばらくすると――、
ゴオオオォォォッ!!
鼓膜を圧するような重低音と共に、空間そのものがグニャリと万華鏡のようにねじ曲がった。
建物の構造的な歪みと数百年分の怨念が織りなす、凄まじい呪力の磁場。
「きゃあっ!?」
「桜井さんっ!?」
伸ばした手が、空を切る。
視界が激しく回転し、隣にいたはずの桜井さんの姿が、まるで霧に呑まれるように一瞬で掻き消えてしまった。
「くそっ、桜井さん! どこだ!?」
叫んでも、自分の声が奇妙な反響音となって返ってくるだけだ。
前後左右の感覚が狂い、どちらへ進めばいいのか完全に遮断された迷いの空間。
(どうすればいい……!? 桜井さんを探すべきか、それとも――)
焦りで呼吸が乱れかけた、その時だった。
ボワァァァァン……ッ!
「……ぶふっ!? 熱っつ!?」
思わず鳩尾を押さえて変な声が出た。
俺のワイシャツの胸元――ズボンのベルトでガチガチに固定していた、あの羽振から押し付けられた同人誌が、まるで電子レンジでチンした肉まんのように猛烈な熱を帯び始めたのだ。
カアァァァァッ……!
次の瞬間、シャツの隙間から、濁りきった悪霊の結界を冒涜するかのような「超絶パステルピンクの聖なる光」がビカビカと漏れ出してきた。
『いいかい坂口くん! このヒロイン・美咲ちゃんはね……文字通りの聖母なんだよ!』
脳裏をよぎる、羽振の無駄に熱い早口オタク解説。
(ウソだろおい……! こんな薄い本に、マジでリアクティブ・アーマーめいた浄化機能が備わってたっていうのかよ!?)
恐る恐る胸元を覗き込むと、フルカラー表紙の美咲ちゃん(神絵師・ぽてと先生作)が、純度100%の無垢な笑顔でニッコリと微笑んでいた。
その聖母のような慈愛の輝きが、周囲に渦巻くドス黒い怨念と怨霊の瘴気を、まるで油汚れ用マジックリンのようにジュワジュワと力技で溶かしていく!
『怨念とトラウマで濁りきった悪霊の歪んだ空間を中和し、君の心臓を守る最強の概念装甲となるのだよ!!』
羽振の暑苦しい声が幻聴となってリフレインする。ありがとう羽振、そしてありがとうぽてと先生。コミケの壁サークルをナメていて本当にすまなかった。
美咲ちゃんの放つ眩しすぎる純愛オーラのおかげで、空間を狂わせていたノイズやバグが次々と強制デバッグされていくように、スーッと視界のモヤが晴れ渡っていく。
ねじ曲がっていたエントランスの立体構造が、頭の中にワイヤーフレームのようにくっきりと浮かんできた。
そして、その聖なる光のベクトルが指し示す先――。
(……見えた!)
ビルの上層、美咲ちゃんの純愛パワーを以てしてもなお相殺しきれないほど、ひときわ巨大で禍々しい怨念がドロドロと渦巻いているフロアの絶対座標を、俺の研ぎ澄まされた感覚がハッキリと捉えた。
20階――あの物理的にねじ曲がっているフロアだ!
エレベーターの液晶パネルは完全にブラックアウトして動かない。
「東雲さん、桜井さん……もう少しだけ待っててくれ!!」
俺は同人誌を胸元で強く押さえ直すと、非常階段の重い扉を蹴り開け、猛然と階段を駆け上がり始めた。
一段飛ばし、二段飛ばしで、限界を超えて脚を動かす。
ストレートネックも腰の痛みも、今は全て熱いアドレナリンの奥へと消し去っていた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
肺が焼き切れるような呼吸の中、ついに辿り着いた20階のフロア。
ここは確か、VIP専用のカンファレンスルームのフロアだったはずだ。
その階の非常扉を力任せに押し開いた瞬間、俺の目に飛び込んできたのは――。
「寿々木先生ッ!!」
薄暗い中でもピカピカに輝いてその存在を主張する大理石の通路の先、見慣れたヨレヨレの白衣を着た寿々木先生の姿だった。
歓喜の声を上げ、駆け寄ろうとした俺の足が、凍りついたように止まる。
「せ……んせい……?」
寿々木先生は、胸元を黒い瘴気に深く抉られ、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちたのだ。
ドサリ、と重い音を立ててカーペットに倒れ伏す先生。
「う……、坂口くん……」
「先生……!?」
「に、逃げろ……。逃げるんだ…。強すぎる……」
「先生……、嘘だろ……先生ェッ!!
絶叫する俺の視界の奥。
倒れた先生の向こう側の闇から、コツコツとゆっくりとした足音を響かせて現れる人影があった。
ショートカットの髪を妖しく揺らし、冷酷な光を宿した瞳で俺を見下ろす女性。
阿月に肉体を乗っ取られた東雲さんだった。
彼女は俺の顔を見るなり、まるで恋焦がれた相手を見つけた少女のように、紅い唇を三日月のように吊り上げて微笑んだ。
「うふふ……会いたかったわ、国広さん」
東雲さんの口から発せられたのは、背筋が凍るような阿月の怨念の声だった。
彼女は倒れた寿々木先生の身体を無造作に見下ろし、誇らしげに両手を広げてみせる。
「国広さんのご要望通り……あの目障りな宮司の末裔は、私が倒しておいたわよ? ……どう? 嬉しい? 喜んでもらえたかしら……?」
「てめぇぇぇぇぇッッッ!!!」
理性が吹き飛び、俺は怒りのままに東雲さん――阿月に向かって一直線に突進した。
「よくも……よくも先生をォォォッ!!」
拳を振り上げ、間合いへと飛び込む俺。
だが、阿月は一切身構えることもなく、どこか残念そうに小さく首を傾げた。
「あら……まだ完全には目覚めていなかったのね。でも……ふふ、もうあと少しといったところかしら?」
阿月がスッと細い指先を掲げると、不可視の衝撃波が放たれ、突進した俺の身体をいとも容易く吹き飛ばした。
「ぐわぁぁぁッ!?」
床を激しく転がり、壁に背中を打ち付ける。
痛みに呻く俺を見下ろしながら、阿月は狂気に満ちた恍惚の笑みを浮かべ、艶やかに囁いた。
「分かったわ。私が最後の仕上げをしてあげる。……もう少しだけ待っていてね、国広さん……!」




