第20話「【中ボスバトル⑤】歪みの根源と、心のコンパイル」
『――お母さん……そんなこと言わないで……』
頭の奥で響いた少年の声に引きずり込まれるように、視界が白く反転した。
見えてきたのは、薄暗い和室。
畳には転がった空き酒瓶。
俺の正面では、ちゃぶ台の前で小さな少年が頭を抱えて身を縮めている。
俺から見てその左隣では、神経質そうな痩せた中年女性が、鬼のような形相で真正面を睨みつけていた。
「あんた……、いい加減にしなさいよ。 今月もまた借金増やして……! パチンコ狂いも大概にしなさいよ!」
中年女性は、地の底から這い上がってきたような低く重い響きのある言葉を、自分の正面の相手に向けて発した。
「ごちゃごちゃうるせえなあ……、これは俺の稼いだ金だ。 どう使おうと俺の自由だあ。お前は、誰のおかげでメシ喰えてると思ってるんだ…!?」
中年女性の正面、俺から見て斜め右方向から男の声が響いた。
そちらに目を向けると、酔っぱらったように赤くなった顔をした中年男が、挑発するようにへらへら笑っていた。
「俺は今日もマリンちゃんに会いに行かなきゃならねえんだよ。勝利の女神が健康的なおっぱいを、ぱいんぱいん揺らしながら俺のことを待っているんだよ!!」
「何が、ぱいんぱいんよ!いい年こいて恥ずかしいったらありゃしない!」
(……なんだ、これ……)
中年の男女が言い争っている間、俺の正面で膝を抱えて座っている少年は一言も発しなかった。
ただ、この時が早く過ぎ去ってくれることを、震えながら待っているようだった。
そこまで見ると、視界が渦巻きのように回転しながら暗転していき、今度は学習塾の入り口前で佇む先ほどの少年と中年女性が見えてきた。
『良介、あなたはしっかり勉強しないとダメよ。そうしないと、低学歴低収入で品性の無い、別れたお父さんみたいになってしまうわよ。でも大丈夫。良介、あなたはとても頭がいいんだから、頑張れば絶対できるわ! 将来は偉いお医者さんになりなさい!』
爪が食い込むほど少年の肩を強く握りしめ、血走った目で見つめる女。少年は引きつった表情で、ただ小さく首を縦に振っていた。
また視界が暗転した。
『トタン、トタン』と、バケツに落ちる雨漏りの音。
少年は震える手で、採点された紙を差し出した。赤字で書かれた『92点』の文字。
女はそれをチラリと見ると、一切の感情を消した手つきで、パンッと少年の頬を張った。
『そんな成績で満足するんじゃないの! 一番上のクラスで全科目95点以上でなければ意味がないわ。将来医学部に行くためにもっと頑張りなさい! お母さん、そのためだったら、いくらでもお金を出すって言ったでしょ。お母さんの頑張りを無駄にする気!?』
紙が床に舞い落ちる。少年は落ちた紙を見つめたまま、じっと唇を噛みしめて耐えていた。
しばらくすると、少年は勉強を始めた。狭いアパートの壁の隙間からは虫が湧き、天井からは水滴が滴り落ちている。
このアパートのほんの少しの隙間からは、不快な部外者が侵入してくる。それは、この少年家族に自分たちの惨めさと貧しさを思い知らせる、意地悪い者の仕打ちのようにも見えた。
(……これは、羽振……なのか……?)
視界がまた暗転する。
ある日、押入れの奥から、かつて父親が気まぐれに買ってきた古いサッカーボールを見つけた少年。
勉強の合間、母親に内緒で公園へ向かい、一人でコツコツとリフティングの練習を始めて、夢中でボールを追いかけていた。
「……十九、二十! やった……!」
1週間後。少年はついに、連続20回のリフティングに成功した。
嬉しくて、褒めてほしくて、少年は泥のついたボールを抱えて母親のもとへ走った。
『お母さん! 見て、リフティング20回できたよ!』
だが、母親の顔に浮かんだのは激しい怒りだった。
『そんなことやってる暇があるなら勉強しなさい!!』
母親は少年の手からサッカーボールをひったくると、ゴミ箱へ叩きつけた。
『……汚らわしい!』
ドカッと音を立てて捨てられたボール。
静まり返った部屋に一人取り残された少年は、膝を折り、ぽろぽろと涙をこぼした。
濡れ雑巾でも捨てるかのように、雑に締められるゴミ袋の口。
少年は両手を差し伸ばした姿勢のまま固まり、そのままゆっくりと膝から床へ崩れ落ちた。
「お母さん……そんなこと言わないで……。僕、頑張ったんだよ……」
ボロボロと溢れる涙が、畳に黒いシミを作っていく。
俺はただの幻影だと知りながら、その背中に向かってゆっくりと歩み寄った。
そして、その小さな肩の前にしゃがみ込み、少年の頭にそっと手を重ねた。
「あぁ、坊や。頑張っているね……。お兄さんは、ちゃんと見ていたよ」
ぴくっと少年の体が跳ねた。
おそるおそる上げた顔。涙で濡れた瞳が俺を映し、少年の口元が少しだけ緩んだ。
「……うん。おにいちゃん、ありがとう……!」
―――
「ハッ……!?」
強い眩暈とともに視界が弾け、俺は元の院長室へと戻っていた。
脳を刺すような吐き気が、妙に和らいでいる。
数メートル先では、羽振が大きく距離を取り、肩を上下させて脂汗を流していた。
「う……貴様……!! 一体何を……っ! まるで僕の心の奥底に、直接触れたかのような……!!」
羽振の手が、ガタガタと震えている。
「危険だ……! 今すぐ始末する……っ!!」
両腕を交差させ、瞳の奥に狂気の光を灯す羽振。
「喰らうがいい! 『歪視眼』と『歪聴波』を同時に最大出力で放つ僕の最大奥義……『歪世界』!!」
部屋中の鏡がバチバチと悲鳴を上げ、怪光と音波の波が津波となって押し寄せてくる。
「坂口さん、逃げてー!!!」
桜井さんの俺を呼ぶ声が、この無駄に広い院長室でこだまする。
(……ずっと、苦しかったんだな)
頭を抱えて震えていた少年の姿が脳裏をよぎる。
(奪われてきた分を取り返したくて必死だったんだろ……。自分を蝕む小さな歪みが怖くて、必死で他人に押し付けていただけなんだな……。お前のやってきたことは最低の悪徳だけど……せめてお前の心だけは、俺が救ってやるよ……!!)
ドガァァァァァァァンッッ!!!
「坂口さんっ!!」
「ははは!! 今度こそ終わりだ!! 僕の『歪世界』に耐えられる人間など存在しない!!歪んだ世界で、もだえ死ね!!」
最大奥義を叩き込み、勝利を確信して高笑いをする羽振。
しかし、その高笑いは、見る見るうちに引きつった驚愕の表情に変わっていった。
グッと床に拳を突き立て、泥臭く立ち上がる俺が見えたのだろう。
「バ……バカな……っ!!? 僕の最強の攻撃を喰らって……生きていられるはずが……!?」
恐れおののく羽振に向かい、俺は一歩を踏み出した。
(不思議な感覚だ……。ついさっきまでだったら、何をしていいか全く分からないうちに負けていただろう相手に、今は何をしてやるべきなのか、はっきりと分かっている……)
「羽振、今からお前を救うために、お前の心を整える!!」
「…!?」
「いくぜ……、『整魂整体』!!」




