第18話「【中ボスバトル③】幻影の肥大化と、真実の記憶」
(う、うおぉぉぉ……!! なんだこの黒いモヤはぁぁぁ!!)
心の中で冷や汗をダラダラと流しながら、俺は必死に構えを取った。
……だが、なんだ? 視界がぐにゃりと歪んでいるように思える。相手との距離感が掴めない。
「どうした……? 来ないのかい?」
応接セットの前で、羽振が不敵に笑う。
俺はふらつきながらも「なにくそ!」と羽振を睨みつけ、足にぐっと力を込めた。
「ふふふ……」
「……!!! 坂口さん、その人の目、見ちゃダメです!!」
桜井さんの悲鳴のような制止の声が響いた。
その直後、羽振の瞳の奥で、黒い渦のような不気味な光が怪しく輝いた。
「ぐっ……!?」
うめき声を上げながらも、俺は必死に戦闘態勢を崩さない。しかし――
「大丈夫かい? そんな腰の状態で。……右ひざも、痛いんじゃないかい?」
羽振の囁くような声に誘われ、ふと自分の右ひざに目をやった。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
(な……なんだこれ……っ!?)
右ひざが、まるで風船のようにとんでもない水ぶくれを起こし、どす黒く腫れ上がっていたのだ。激痛が走り、立っていられなくなる。
これは……高校時代、サッカー部だった頃の古傷だ。今はもう完治しているはずなのに……!
「おやおや、無理しなさんなよ。下手くそは怪我しやすいからなあ……。補欠のお前は、サッカーをやるより、おとなしくボールを磨いて、グラウンドの隅を走り回っていることだ」
この声は……、羽振? いや……、高校のサッカー部の先輩?
羽振の声が、俺の頭の中で当時の意地悪い先輩の声と重なって、こだまし始めた。
……なんで今、こんな嫌な言葉を、こんなにも鮮明に思い出すんだ?
その直後、どこからともなく課長がやってきた。
『坂口! お前の作ったコード、バグだらけだぞ! このままだと納品に間に合わない! お前が取引先に行って土下座して謝るんだ! お前のような役立たずにできることはそれぐらいだ!』
「か、課長……っ、うう……」
俺に怒号を浴びせる課長。ううう……、ヘボSEでごめんなさい……。
さらにその横で、軽蔑したような目を向ける東雲さんの姿が見えた。
『やっぱり、ダメな男はダメね』
東雲さんは冷たく言い放つと、隣にいるイケメン先輩社員の腕をギュッと握りしめ、俺に背を向けてプイと去っていった。
(うああぁぁぁぁぁっ……!!)
精神を直接汚染されるような激痛に、俺は頭を抱えてのたうち回った。
「うう……っ、俺なんてCラン大卒の冴えないSEだし……。最初から、エリートで金持ちの医者なんかに勝てるわけなかったんだ……!」
自己肯定感が底まで叩き落とされ、全身の力が抜けていく。俺は、思考が麻痺し、指一本動かせなくなった。
「ははは! どうした!? さっきまでの威勢の良さはどうしたんだい!? 自分に自信が持てないか!!」
羽振が高笑いを上げながら、俺の前に紙束を突き出してきた。
「……いいだろう。僕が君を救ってあげよう! 今は男も顔を整えて、身だしなみに気を遣う時代だからね。この『男のプレミアム・自信爆発パーフェクトプラン(600万円)』の契約書にサインをするんだ。そうすれば君は生まれ変われる! 君を見下していた奴らも、イケメンでモテモテになった君を見て、目を剥いて見直すだろうね!!」
「……いけめん……もてもて……」
瞳から光が消え、俺は吸い寄せられるようにふらふらと羽振へ歩み寄る。
「……じぶんに……じしん……」
「そうだ、ここにサインを――」
バッ!!
突如割り込んできた桜井さんが、羽振の手から契約書を奪い取り、豪快にビリビリと破り捨てた!
「!? なっ……君、何を――」
「坂口さん、目を覚ましてください!!」
桜井さんは俺の肩を掴み、涙目で強く揺さぶった。
「今、坂口さんが見たのは、この人が見せた幻影です!! あの目の光で、心の奥底にあるほんの小さな不安やコンプレックスをとてつもなく大きく見せて、相手を操る……! それが、この人の力なんです!!」
「……っ!?」
頭の中に雷が落ちたような衝撃が走った。
……拡大表示……!?
SEの習性が、土壇場で脳のバグを検知する。
『表示データが無限大に膨れ上がっているだけ……? 元のデータ(歪み)は、たった0.5ミリ……!?』
「しっかりしてください、坂口さん!!」
桜井さんはまっすぐ俺の目を見つめ、叫んだ。
「坂口さんは、誰よりも優しくて、誠実で、女の子の気持ちに寄り添える……素敵な男性です!! そんな幻影に、負けないで!!」
ビビビビビビッッッ!!!
ヒャッハアアアアアアアア!!!
嬉しすぎる言葉をもらった俺の全身の神経に、稲妻のような電撃が駆け抜けた。
視界を覆っていた不気味な黒いモヤが、一瞬で吹き飛ぶ。
(……そうだ。よく思い出してみろ、俺……!)
右ひざが水ぶくれを起こしたあの日、部活の先輩は冷たい言葉なんて吐いていない。
『お前、頑張って走ってるな。でも無理はすんな』
と言って、俺の膝に丁寧にアイシングをしてくれたはずだ。
課長だってそうだ。コードにバグが見つかった時、怒鳴り散らすどころか、
『ったく、しょうがねぇな! 俺がカバーしてやるから飯食ってこい!』
と徹夜でフォローしてくれた。
そして……東雲さんだって、俺を蔑むような人じゃない!!
『坂口さん、私も手伝います。私たち、一緒のチームなんですから!』
そうだ……、本当は、チームだからって言って、一緒にバグ修正してくれたんだ!!
(全部……全部、俺のちっぽけなコンプレックスを増幅させただけのバグだ!!)
「おおおぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!」
「な、なんだと……っ!?」
覚醒した俺の全身から溢れ出る気迫に、羽振が慄いて後退る。
「よくも……俺の大切な人たちの思い出を汚してくれたな……っ!!」
足裏から吸い上げた力を背骨に伝え、全身の歪みを一点に集中させたパンチを――羽振の顔面に叩き込んだ!
ドガァァァン!!
「ぐはぁぁっっ!!?」
羽振の体が綺麗に一回転し、大理石の床に激しく叩きつけられた。
「やった……! やったぁぁ! 坂口さん!!」
桜井さんが歓喜の声を上げる。床に這いつくばった羽振が、信じられないといった様子で俺を見上げて呻いた。
「う、うそだ……バカな……! 僕の『歪視眼』を破っただと……!? こ、こいつ……!!」
俺は破り捨てられた契約書の紙くずを踏みしめ、冷徹なプロの目で床に這いつくばる羽振を見下ろす。
「お客様……そのままうつ伏せになっていてください」
「……!?」
「――整体の時間です」




