第九話「混ざる」
引っかかりは、ずっとそこにあった。
井戸水で焼いたバゲットは、おばちゃんに褒められた。さつきも「絶対ウケる」と言った。
うまいとは言われた。
でも佳乃の手は、まだ覚えていた。
あの軽さを。
クラストを噛んだときの、中がついてこない感じを。
悪くはなかった。
でも、自分が焼きたいパンとは、少しだけ違った。
その「少しだけ」が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
その日の朝、実家から電話があった。
母からだった。
「佳乃、ちょっと帰ってこれる? 父さんが腰やって、店の仕込みが大変で」
「わかった。今日行きます」
電話を切ると、さつきが土間から顔を出した。
「どこか行くの?」
「実家です。少し手伝いがあって」
「あ、じゃあ私は」
「留守番しといてください」
「了解」
さつきが素直に引き返した。
佳乃は少し間を置いてから、鞄を持って表に出た。
路地は静かだった。さつきが朝に掃いた分、花びらの残っていない石畳だった。
中京区の実家は、白梅町から市バスで三十分ほどかかった。
店に着くと、兄がすでに台所に立っていた。
「来てくれたか。父さん、また無理したらしくて」
「どれくらい?」
「三日は安静やって。仕込み手伝ってくれるか」
「うん」
佳乃は手を洗って、兄の隣に立った。
豆腐屋の台所は、実家の匂いがした。大豆を煮る、甘くて重い匂い。子どもの頃からずっとそこにあった匂いだった。
兄が豆乳を鍋に移しながら言った。
「最近どうや、あっちは」
「少しずつ進んでます」
「パン屋、ほんまにやるんか」
「やります」
兄が少し笑った。何も言わなかった。森下家の人間は、みんな言葉が少ない。
しばらく、2人で黙って作業した。
豆乳が温まって、にがりを加えるタイミングになった。
兄が小さな計量カップでにがりを量って、鍋に静かに垂らした。少量だった。数滴、というくらいの量だった。
それを見た瞬間、佳乃の手が止まった。
にがり。
塩化マグネシウム。ミネラル分。
頭の中で、井戸水の感触がよみがえった。
あの軽さに、足りていなかったもの。
もしかしたら関係あるかもしれない。
鍋の中で、豆乳がゆっくりとかたまり始めた。
兄は何も言わなかった。
佳乃も何も言わなかった。ただ、その白い液体が変わっていく様子を、しばらく見ていた。
実家から帰ったのは夕方だった。
さつきが土間でMacBookを開いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「お父さん、大丈夫?」
「腰です。三日で戻ると思います」
「そっか」
さつきが画面から目を上げた。
「ご飯、作ろうか」
「ええです」
佳乃は台所に入った。棚の奥を探した。先日、実家から持って帰っていたものがあった。
にがりの小瓶だった。
豆腐を作るとき、家に常備してあるものだった。佳乃が白梅町に来るときに、何となく持ってきていた。
小瓶を手に取って、光にかざした。
透明な液体だった。
「何それ」
さつきが台所の入口から覗いた。
「にがりです」
「豆腐用の?」
「そうです」
さつきが少し首を傾けた。何かを訊こうとして、やめた。
「ご飯、私が作るね」
引き戸が閉まる音がした。
佳乃は小瓶を棚に戻した。
まだ、言葉にならなかった。
翌朝、さつきが起きてくる前に、佳乃は台所に立った。
まだ暗い時間だった。
井戸から水を汲んだ。冷たかった。きんとした、いつもの冷たさだった。
粉を量って、水を加えた。それから、にがりの小瓶を取り出した。
どれくらい入れるか、正確にはわからなかった。
豆腐を作るときの量を思い出した。でもパンに使う水の量は、豆乳とは違う。グルテンへの影響も、読めなかった。
まず、多めに入れた。
様子を見るために。
粉に水を加えて、捏ね始めた。
最初の感触で、違うとわかった。
いつもより締まっている。手にまとわりつく感じが、少ない。
一次発酵に入れながら、さつきがいつ起きてくるかを、なんとなく考えた。今日は、見られたくなかった。うまくいく気がしていたからではなく、うまくいかない気がしていたからだった。
焼き上がりを見た瞬間、首を傾げた。
クープが開いていなかった。
切り分けると、クラムが詰まっていた。断面が重たく見えた。
一口食べた。
固すぎた。
にがりが、井戸水の柔らかさを殺していた。
入れすぎた。わかった。
もう一度、仕込んだ。
今度は数滴、というくらいまで減らした。
二階から、さつきが降りてくる音がした。
「何してるの」
「試作中です。見んといてください」
「うん」
足音が土間の方へ遠ざかった。珍しかった。いつもなら覗きに来る。
焼き上がりを見た。
クープが、少し開いていた。
前より、いい。
一口食べた。
ある。
あの軽さが、まだ残っていた。でも、その下に、何か少しだけ芯があった。
もう少し減らしてみるか、もう少し増やしてみるか。どちらかだった。
佳乃は皿をテーブルに置いた。
さつきがMacBookから顔を上げた。
「これ、食べていい?」
「どうぞ」
さつきが一切れ食べた。
少し考える顔をした。
「……いつもと違う?」
「試作中です」
「そっか」
それ以上は訊かなかった。また画面に向き直った。
佳乃は台所に戻った。
三度目、さつきが昼の支度をしている間に仕込んだ。
にがりは、数滴から、さらに減らした。
兄がにがりを垂らしていたときの、あの量を思い出した。あれくらいかもしれない。
捏ねた。
手の感触が、変わった。
井戸水だけのときの、あの柔らかさが戻ってきた。でも、それだけじゃなかった。何か、少しだけ芯があった。捏ねていると、生地がまとまっていく感覚があった。
一次発酵。
膨らみ方が、自然だった。
成形しながら、手が何かを覚えていく感じがした。
これかもしれない、と思った。
クープを入れて、オーブンへ。
焼き上がりを見た。
クープが開いていた。
いつもよりいい。でも、先週の井戸水だけのときとも、違う。開き方に、締まりがあった。
皿に乗せて、切り分けた。
クラムを見ると、気泡が大きかった。でも、先週より揃っていた。断面に、重さと軽さが両方あった。
一口食べた。
モチモチ感があった。
そして、その奥に、締まりがあった。
軽すぎない。
引っかかりが、なかった。
佳乃はしばらく、そのパンを見ていた。
京都の井戸水と、実家のにがり。
どちらも昔から知っていた。
なのに、今まで一度も結び付かなかった。
それが、ここで繋がった気がした。
「またええ匂いしてるな」
夕方、おばちゃんが来た。
「食べますか」
佳乃が皿を持ってきた。さつきが「どうぞ」と言っていた。
おばちゃんが一切れ食べた。
「……あれ」
もう一口食べた。
「また変わった?」
「少し変えました」
「なんか、前より……」
おばちゃんが少し考えた。
「しっかりしてる。でも、柔らかい」
「はい」
「これ、ええな」
さつきが佳乃を見た。佳乃は何も言わなかった。
おばちゃんが帰って、さつきが手を伸ばした。
一切れ食べた。
黙った。
すぐに「おいしい」と言わなかった。もう一口食べて、それでも黙っていた。
「……なんか、違う」
「そうですか」
「前と同じ井戸水?」
「はい」
「でも、違う」
佳乃は答えなかった。
さつきがもう一口食べた。
「何が変わったの」
「……試作中です」
「そっか」
さつきはそれ以上訊かなかった。
佳乃はそれ以上言わなかった。
でも、さつきの黙り方が、いつもと違ったことは、ちゃんとわかっていた。
昨日、断られた人間の黙り方ではなかった。
パンを、ちゃんと聞こうとしている人の黙り方だった。
夜、2人で布団に入った。
さつきがスマホを見ていた。
画面に「空室あり」の文字が見えた。
白梅町近辺のワンルームが並んでいた。
さつきはしばらく眺めていた。
指が予約ボタンの上で止まる。
結局、閉じた。
何も言わなかった。
「おやすみ」とだけ言って、スマホを枕元に置いた。
「おやすみ」
さつきの寝息が、すぐに聞こえてきた。
佳乃は天井を見ていた。
今日、何度も失敗した。何度も仕込んだ。手が、少しずつ覚えた。
まだ完成ではない。でも、方向は見えた。
京都の水と、実家のにがり。
自分のものになっていく気がした。
それをさつきに説明しようとは思わなかった。
説明しなくても、あの黙り方が、答えだった気がした。
路地の向こうで、嵐電が走る音がした。
春の終わりに近い夜だった。
井戸の水の冷たさが、まだ指先に残っていた。




