表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九話「混ざる」

引っかかりは、ずっとそこにあった。


井戸水で焼いたバゲットは、おばちゃんに褒められた。さつきも「絶対ウケる」と言った。

うまいとは言われた。


でも佳乃の手は、まだ覚えていた。


あの軽さを。


クラストを噛んだときの、中がついてこない感じを。

悪くはなかった。

でも、自分が焼きたいパンとは、少しだけ違った。


その「少しだけ」が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。



その日の朝、実家から電話があった。


母からだった。


「佳乃、ちょっと帰ってこれる? 父さんが腰やって、店の仕込みが大変で」


「わかった。今日行きます」


電話を切ると、さつきが土間から顔を出した。


「どこか行くの?」


「実家です。少し手伝いがあって」


「あ、じゃあ私は」


「留守番しといてください」


「了解」


さつきが素直に引き返した。


佳乃は少し間を置いてから、鞄を持って表に出た。

路地は静かだった。さつきが朝に掃いた分、花びらの残っていない石畳だった。



中京区の実家は、白梅町から市バスで三十分ほどかかった。


店に着くと、兄がすでに台所に立っていた。


「来てくれたか。父さん、また無理したらしくて」


「どれくらい?」


「三日は安静やって。仕込み手伝ってくれるか」


「うん」


佳乃は手を洗って、兄の隣に立った。


豆腐屋の台所は、実家の匂いがした。大豆を煮る、甘くて重い匂い。子どもの頃からずっとそこにあった匂いだった。


兄が豆乳を鍋に移しながら言った。


「最近どうや、あっちは」


「少しずつ進んでます」


「パン屋、ほんまにやるんか」


「やります」


兄が少し笑った。何も言わなかった。森下家の人間は、みんな言葉が少ない。


しばらく、2人で黙って作業した。


豆乳が温まって、にがりを加えるタイミングになった。


兄が小さな計量カップでにがりを量って、鍋に静かに垂らした。少量だった。数滴、というくらいの量だった。


それを見た瞬間、佳乃の手が止まった。


にがり。


塩化マグネシウム。ミネラル分。


頭の中で、井戸水の感触がよみがえった。

あの軽さに、足りていなかったもの。

もしかしたら関係あるかもしれない。


鍋の中で、豆乳がゆっくりとかたまり始めた。

兄は何も言わなかった。


佳乃も何も言わなかった。ただ、その白い液体が変わっていく様子を、しばらく見ていた。



実家から帰ったのは夕方だった。


さつきが土間でMacBookを開いていた。


「おかえり」


「ただいま」


「お父さん、大丈夫?」


「腰です。三日で戻ると思います」


「そっか」


さつきが画面から目を上げた。


「ご飯、作ろうか」


「ええです」


佳乃は台所に入った。棚の奥を探した。先日、実家から持って帰っていたものがあった。


にがりの小瓶だった。


豆腐を作るとき、家に常備してあるものだった。佳乃が白梅町に来るときに、何となく持ってきていた。


小瓶を手に取って、光にかざした。

透明な液体だった。


「何それ」


さつきが台所の入口から覗いた。


「にがりです」


「豆腐用の?」


「そうです」


さつきが少し首を傾けた。何かを訊こうとして、やめた。


「ご飯、私が作るね」


引き戸が閉まる音がした。


佳乃は小瓶を棚に戻した。

まだ、言葉にならなかった。



翌朝、さつきが起きてくる前に、佳乃は台所に立った。

まだ暗い時間だった。

井戸から水を汲んだ。冷たかった。きんとした、いつもの冷たさだった。


粉を量って、水を加えた。それから、にがりの小瓶を取り出した。

どれくらい入れるか、正確にはわからなかった。


豆腐を作るときの量を思い出した。でもパンに使う水の量は、豆乳とは違う。グルテンへの影響も、読めなかった。


まず、多めに入れた。

様子を見るために。


粉に水を加えて、捏ね始めた。

最初の感触で、違うとわかった。


いつもより締まっている。手にまとわりつく感じが、少ない。


一次発酵に入れながら、さつきがいつ起きてくるかを、なんとなく考えた。今日は、見られたくなかった。うまくいく気がしていたからではなく、うまくいかない気がしていたからだった。


焼き上がりを見た瞬間、首を傾げた。

クープが開いていなかった。

切り分けると、クラムが詰まっていた。断面が重たく見えた。


一口食べた。


固すぎた。

にがりが、井戸水の柔らかさを殺していた。


入れすぎた。わかった。



もう一度、仕込んだ。

今度は数滴、というくらいまで減らした。


二階から、さつきが降りてくる音がした。


「何してるの」


「試作中です。見んといてください」


「うん」


足音が土間の方へ遠ざかった。珍しかった。いつもなら覗きに来る。


焼き上がりを見た。

クープが、少し開いていた。

前より、いい。


一口食べた。


ある。

あの軽さが、まだ残っていた。でも、その下に、何か少しだけ芯があった。


もう少し減らしてみるか、もう少し増やしてみるか。どちらかだった。


佳乃は皿をテーブルに置いた。


さつきがMacBookから顔を上げた。


「これ、食べていい?」


「どうぞ」


さつきが一切れ食べた。

少し考える顔をした。


「……いつもと違う?」


「試作中です」


「そっか」


それ以上は訊かなかった。また画面に向き直った。


佳乃は台所に戻った。



三度目、さつきが昼の支度をしている間に仕込んだ。


にがりは、数滴から、さらに減らした。


兄がにがりを垂らしていたときの、あの量を思い出した。あれくらいかもしれない。


捏ねた。

手の感触が、変わった。


井戸水だけのときの、あの柔らかさが戻ってきた。でも、それだけじゃなかった。何か、少しだけ芯があった。捏ねていると、生地がまとまっていく感覚があった。


一次発酵。


膨らみ方が、自然だった。


成形しながら、手が何かを覚えていく感じがした。

これかもしれない、と思った。


クープを入れて、オーブンへ。



焼き上がりを見た。

クープが開いていた。

いつもよりいい。でも、先週の井戸水だけのときとも、違う。開き方に、締まりがあった。


皿に乗せて、切り分けた。

クラムを見ると、気泡が大きかった。でも、先週より揃っていた。断面に、重さと軽さが両方あった。


一口食べた。


モチモチ感があった。

そして、その奥に、締まりがあった。

軽すぎない。


引っかかりが、なかった。


佳乃はしばらく、そのパンを見ていた。


京都の井戸水と、実家のにがり。

どちらも昔から知っていた。

なのに、今まで一度も結び付かなかった。


それが、ここで繋がった気がした。



「またええ匂いしてるな」


夕方、おばちゃんが来た。


「食べますか」


佳乃が皿を持ってきた。さつきが「どうぞ」と言っていた。


おばちゃんが一切れ食べた。


「……あれ」


もう一口食べた。


「また変わった?」


「少し変えました」


「なんか、前より……」


おばちゃんが少し考えた。


「しっかりしてる。でも、柔らかい」


「はい」


「これ、ええな」


さつきが佳乃を見た。佳乃は何も言わなかった。


おばちゃんが帰って、さつきが手を伸ばした。


一切れ食べた。


黙った。


すぐに「おいしい」と言わなかった。もう一口食べて、それでも黙っていた。


「……なんか、違う」


「そうですか」


「前と同じ井戸水?」


「はい」


「でも、違う」


佳乃は答えなかった。


さつきがもう一口食べた。


「何が変わったの」


「……試作中です」


「そっか」


さつきはそれ以上訊かなかった。


佳乃はそれ以上言わなかった。


でも、さつきの黙り方が、いつもと違ったことは、ちゃんとわかっていた。

昨日、断られた人間の黙り方ではなかった。

パンを、ちゃんと聞こうとしている人の黙り方だった。



夜、2人で布団に入った。


さつきがスマホを見ていた。


画面に「空室あり」の文字が見えた。

白梅町近辺のワンルームが並んでいた。

さつきはしばらく眺めていた。

指が予約ボタンの上で止まる。


結局、閉じた。


何も言わなかった。


「おやすみ」とだけ言って、スマホを枕元に置いた。


「おやすみ」


さつきの寝息が、すぐに聞こえてきた。


佳乃は天井を見ていた。


今日、何度も失敗した。何度も仕込んだ。手が、少しずつ覚えた。


まだ完成ではない。でも、方向は見えた。


京都の水と、実家のにがり。


自分のものになっていく気がした。


それをさつきに説明しようとは思わなかった。


説明しなくても、あの黙り方が、答えだった気がした。


路地の向こうで、嵐電が走る音がした。

春の終わりに近い夜だった。

井戸の水の冷たさが、まだ指先に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ