第八話「一緒にやりたい」
朝の掃除が終わって、2人でお茶を飲んでいた。
さつきの箒さばきは、最近ようやく一尺に近づいてきた。まだ少し多いが、以前のように両隣に花びらを送ることはなくなっていた。
路地に春の光が差し込んでいた。桜はとうに終わって、青葉の季節になっていた。
「佳乃」
さつきが湯呑みを両手で持ったまま言った。
「はい」
「ちょっと、聞いてほしいことがあって」
佳乃は湯呑みを置いた。
さつきが、改まって何かを言うのは珍しかった。いつもは話す前に体が動く人間だった。
「一緒にやらせて」
言い方は、静かだった。
「この店」
さつきが佳乃を見た。視線が、いつもより真っ直ぐだった。
「パートナーとして、ちゃんと関わりたい」
佳乃はしばらく、さつきを見ていた。
路地の向こうで、自転車が通り過ぎた。
佳乃は一度、視線を外した。
「……お断りします」
「なんで」
即座だった。
「理由、聞いていい?」
佳乃は少し黙った。
理由は、ある。ただ、言葉にするのが難しかった。見ず知らずの人間に頼めない、というのは本当だった。でもそれだけではなかった。もっと別の何かが、言葉になる前にあった。
「……今は、まだ」
「今は?」
「自分でやれるところまで、やりたいんです」
さつきが湯呑みをテーブルに置いた。
「お金の問題があっても?」
「あっても」
「それ、意地じゃないの」
「……そうかもしれないです」
さつきが少し黙った。否定しなかった。
しばらく、2人とも何も言わなかった。
「この店のパン、好きなんだ」
さつきが言った。
佳乃は返事をしなかった。
「最初に食べたとき、なんとなく好きだと思った。でも、今は違う」
さつきが窓の外を見た。路地に青葉の影が揺れていた。
「バゲットのことも、カンパーニュのことも、井戸水のことも、少しずつわかってきた。佳乃がどういうつもりで作ってるか、全部はわからないけど、感じてることはある」
少し間があって、
「だから好きなんだ。なんとなくじゃなくて」
さつきが佳乃を見た。
「そういう店、一緒にやりたかった」
佳乃は何も言わなかった。
さつきが立ち上がった。湯呑みを片付けながら、
「パートナーは無理でも、ここに居てもいい?」
「……居るのは、かまいません」
「家賃代わりに、片付けとか雑用はやる。ロゴも、頼まれてないけど作り続ける」
「……好きにしてください」
さつきが少し笑った。
「ありがとう」
「別に」
「ありがとう」
さつきは繰り返した。佳乃は返事をしなかった。
午後、さつきはMacBookを開いて作業をはじめた。
ロゴの最終調整だった。小麦の穂のモチーフが、少しずつ洗練されていた。最初のラフとはもう別物になっていた。頼まれていないのに、続けていた。
佳乃は台所に入った。
粉を量って、水を加えた。井戸から汲んできた水だった。きんとした冷たさが、手に馴染んだ。
捏ねながら、さっきの言葉を反芻した。
なんとなくじゃなくて、と言った。
衝突した。
あのとき、さつきは『誰のための店なの』と言った。
佳乃は答えられなかった。
翌朝、くるみとチーズのクッペを作った。
さつきは『ありがとう』と言った。
井戸水を見つけたのはさつきだった。「ここで焼いてるのに?」という問いが、佳乃を動かした。
「好き」と言った。
刺さった。
表情には出なかった。
生地を丸めながら、佳乃は自分でもよくわからないことを考えていた。断った理由が、本当に「自分でやりたい」だけなのか。それとも別の何かがあるのか。
答えは出なかった。
出す必要もない気がした。
今は、生地を丸めることだけ考えればよかった。
夕方、おばちゃんが来た。
「また来てしもた」
さつきが引き戸を開けた。
「どうぞ」
「今日はパン焼いてる?」
「焼いてる。佳乃が」
おばちゃんが土間に入って、台所の方を覗いた。
「あの子、毎日焼いてるね」
「そうなんです」
「売ってくれたらええのに」
さつきが少し笑った。
「もうすぐ、たぶん」
「ほんまに? 楽しみやな」
おばちゃんが帰って、さつきが台所の入口に立った。
「おばちゃん、また来たよ」
「聞こえてました」
「もうすぐ売るって言っちゃった」
「……勝手に言わんといてください」
「でも、そうなるんでしょ」
佳乃は答えなかった。
答えなかったが、手が止まらなかった。
生地は、ちゃんと育っていた。
夜、布団が並んで敷かれていた。
いつもと同じだった。
今日、断った。それでも、さつきはまだいた。帰ると言わなかった。帰る様子もなかった。
「ねえ」
さつきが天井を見たまま言った。
「はい」
「断られたの、初めてかも」
「そうですか」
「うん。こういうとき、どうしたらいいんだろうって思った」
「どうしたんですか」
「泊まることにした」
佳乃は答えなかった。
「また明日、考える」とさつきが言った。
「……何をですか」
「方法」
また、その言葉だった。根拠のない言葉だった。でも、昨日と同じように、少しだけ軽くなった。
さつきの寝息が、すぐに聞こえてきた。
早かった。いつものことだった。
佳乃は天井を見ていた。
断った。
それでも、まだいる。
その事実が、静かにそこにあった。




