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第七話「現実の値段」

封筒が、届いていた。

朝の掃除を終えて土間に入ると、テーブルの上に置いてあった。改装業者からだった。


佳乃はしばらく、それを見ていた。手を伸ばせば開けられる距離だったが、すぐには触らなかった。


「何?」


二階からさつきが降りてきた。寝癖がついたままだった。


「見積もりです」


「あ、来た」


さつきが隣に立った。距離が近かった。もう驚かなくなっていた。


封を開ける。


数字が並んでいた。


土間の補修。台所の改装。電気の引き直し。換気設備。内装。


一つ一つは、見れば納得できる額だった。

けれど、最後の合計欄だけが、現実ではないもののように見えた。


「いくら?」


さつきが覗き込んだ。


佳乃は指で示した。


さつきが固まった。


しばらく、2人とも何も言わなかった。

路地の向こうで、自転車が通り過ぎる音がした。


「……オーブン、込み?」


「込みではないです」


さつきがテーブルに両手をついた。


「足りる?」


「足りません」


さつきが椅子を引いて座った。佳乃も座った。

封筒がテーブルの真ん中にあった。


窓の外で、花びらが一枚、路地に落ちた。



「薪窯って、考えてないの?」


しばらくして、さつきが言った。


「一度は考えました」


「ここ、竈の跡もあるし。向いてそうだけど」


さつきが土間の奥を見た。竈の跡は、ずっとそこにあった。最初の日から。


「煙が出ます。煙突も要る。費用も、デッキオーブンの比やない」


佳乃は竈の跡を見た。


「やりたいだけでは、無理です」


さつきが少し黙った。


「あの竈の跡、使えないんだ」


「使えません」


「もったいないね」


佳乃は答えなかった。


もったいない、とは思っていなかった。正確に言うと、もったいないという言葉を使う前に、すでに手放していた。職人として、やれないことはやれないと決める。それだけのことだった。


でも、竈の跡を最初に見たとき、少しだけ期待したのは本当だった。


「電気にします」


「……デッキオーブン?」


「はい」


さつきがゆっくりとうなずいた。


何も言わなかった。反論は来なかった。

それが少し、意外だった。



午後になって、佳乃は台所に入った。


手を動かしていないと、考えすぎる。体が覚えている動作に任せると、頭が少し静かになった。水に触れている間だけ、数字が遠くに行く気がした。手を離すと、また戻ってくるのはわかっていた。


井戸から水を汲んで、粉を量った。


手が水に触れた瞬間、冷たさがきた。地下水の、きんとした冷たさだった。


いつもと同じ感触だった。


生地に水を加える。手にまとわりつくようでいて、離れるときはすっと離れた。


これは悪くない、と思った。


台所の入口に、さつきが来た。


「見んといてください」


「見てるだけ」


しばらく、さつきは黙ってそこに立っていた。


捏ねながら、佳乃は何も言わなかった。さつきも、珍しく喋らなかった。

ただ、いた。


いつもなら何か言ってくる。道具のことでも、工程のことでも、関係ない話でも。

今日は黙っていた。


それが、少しだけ重かった。


生地の具合を確かめながら、佳乃はさっきの封筒のことを考えた。考えたくなかったが、手が動いている間は頭が勝手に動いた。どこから足りない分を調達するか。融資の申請は、実績のない開業者には厳しい。


一次発酵に入る。


土間に出ると、さつきがMacBookを開いていた。でも画面を見ていなかった。


「作業してないんですか」


「……してる」


「してないですね」


さつきが画面に視線を戻した。


「ロゴの最終版、詰めてた」


「そうですか」


「……でも、さっきから同じところを見てる」


佳乃は急須を取り出して、お茶を淹れた。棚の上の、祖父が好きだったお茶だった。


さつきがスマホを取り出した。


しばらく画面をスクロールして、眉が少しずつ下がっていった。


「……全然あいてない」


「春ですから」


「河原町の方は」


「もっと埋まってると思います」


さつきがスマホを置いた。


「どうしよう」


「どうしましょう」


佳乃が繰り返した。


さつきが顔を上げて、佳乃を見た。佳乃はさつきを見ていた。


「……今日も、いてもいいですか」


一拍の沈黙。


「布団、今日も干しました」


さつきは少し考えた。


「……あ」


佳乃はうなずいた。


「ありがとうございます」


「別に」


それ以上は言わなかった。


「ここ、どうにかなると思う?」


しばらくして、さつきが訊いた。


「どうにかする、というより」


「うん」


「やめるか、やるかの、どちらかです」


さつきが湯呑みを受け取った。両手で持った。


「やめるの?」


「やめたくはないです」


「じゃあやる」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃないのはわかってる。でも」


さつきが湯呑みを見た。


「やめたくないなら、やる以外にないじゃん」


言い方は軽かった。でも、引き返す余地を残さない言い方だった。逃げ道を一つ、消された気がした。


佳乃は答えなかった。


間違ってはいない、と思った。

でも、それだけではなかった。


「いくら、足りないの」


さつきが静かに訊いた。


「計算してみないとわかりません」


「だいたいでいいから」


佳乃は少し黙った。貯金。実家から出てもらえる額。見積もり。オーブン。初期の仕入れ。


頭の中で並べて、引いた。


「……百万以上は、足りないと思います」


言ってから、喉の奥が少し乾いた。


さつきが黙った。


窓の外で、風が通った。春の終わりに近い風だった。


お茶が、ゆっくりと冷めていった。



夕方、実家に電話した。


土間に1人だった。さつきは二階にいた。


父が出た。


「先週の話の続きやけど」


「うん」


「改装の見積もりが出た。思ったより高かった」


電話口の父が、少し間を置いた。


「どれくらい?」


佳乃は数字を言った。


父はまた黙った。


「……うちから出せるのは、先週言った額が限界や」


「わかってます」


「体に気をつけや」


電話が切れた。


森下家の人間は、みんな言葉が少ない。

それでいい、と思っていた。今日だけは、少しだけ長く話したかった気がした。


土間に戻ると、さつきがいた。

いつのまにか降りてきていた。


お茶を淹れて、窓の外を見ていた。路地に夕日が差し込んでいた。石畳が橙色に染まっていた。


何も訊かなかった。


佳乃は急須を取って、自分の湯呑みにも注いだ。


2人とも、しばらく外を見ていた。


遠くで嵐電が走る音がした。


「方法はあるよ、きっと」


さつきが言った。


根拠はなかった。

でも、その言い方には、根拠の代わりになる何かがあった。


佳乃は答えなかった。


答えなかったが、否定もしなかった。



夜、さつきが布団に入ってから、佳乃はテーブルに向かった。


紙を出して、数字を書いた。


貯金。実家からの援助。見積もり。オーブン。その他の初期費用。


並べて、引いて、足りない額を出した。


数字は正直だった。感情が混ざらなかった。


紙を見ていると、頭の中のものが全部外に出て、整列しているような気がした。それが少し、楽だった。


紙を折りたたんで、棚の上に置いた。


見積もりの封筒の隣に、並べた。


隣で、さつきの寝息が聞こえた。


早かった。いつものことだった。


佳乃は天井を見た。梁の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。


足りない。


でも、やめたくない。


そのどちらも、同じ重さでそこにあった。

消えそうにはなかった。


どこかで、戸が閉まる音がした。

窓の外で、花びらが一枚、落ちた。

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