表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第六話「京都の水」

午後の光が中庭に差し込んでいた。

さつきが段ボールを一つ運び終えて、中庭に出る。風が通った。春の終わりに近い、少し湿った風だった。


ふと、足が止まる。

中庭の隅に、竹で組まれた蓋があった。


何度も通り過ぎていた場所だった。見えていたはずなのに、そこに「何かがある」と思ったことは一度もなかった。今日になって、急にそれが「あるもの」として浮かび上がってきた。


手をかける。


「それ、触らんといてください」


台所から佳乃の声がした。


「何これ?」


「触らんといてください」


さつきは触った。


竹の蓋を持ち上げると、暗い穴があった。

石で丁寧に組まれている。覗き込むと、遠く底に水の気配があった。

冷たい空気が、穴の底から押し上げるように上がってくる。

湿っていて、少し古い匂い。


さつきは思わず顔をしかめた。


「……井戸?」


佳乃が台所から出てきた。蓋が外れているのを見て、少し目を細める。


「祖父の代から使うてなかったやつです」


「水、出るの?」


「さあ」


「出たとしたら——」


さつきが顔を上げて、佳乃を見た。


「これでパン焼いたら、どう思います?」



佳乃はすぐには答えなかった。

井戸を見た。竹の蓋を見た。さつきを見た。


「パンに使う水は、硬水の方がええんです」


「硬水?」


「ミネラル分が多い方が、生地が締まるんです」


「だから今、エビアン使ってるんですか」


「そうです。フランスの水に近い方が、本来のバゲットに近くなるから」


さつきが井戸を覗き込んだまま言った。


「でも、ここでやるんだから、京都の水のパンっていいよ」


「……」


「……ここで焼いてるのに?」


佳乃は少し黙った。言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。正しいかどうかはわからなかった。でも、間違ってもいなかった。


「……まず水質検査です」


「え、やるの?」


「飲食用として問題があったら意味ないから」


さつきが顔を輝かせた。



水質検査の申し込みをして、結果が出るまで数日かかった。


その間も、2人はいつも通りだった。

佳乃はエビアンで仕込みを続け、さつきはロゴの細部を詰めた。

キーボードを叩く音が、土間に静かに響く。土間に差し込む春の光が、少しずつ傾いていく。

そういう午後が続いた。


おばちゃんが自転車を押して通りがかりに覗いた。


「あの井戸、使うの?」


「使うかもしれないです」


さつきが答えると、おばちゃんが「ほな楽しみやな」と言って帰っていく。

近所に筒抜けだった。佳乃は何も言わなかった。


数日後、検査結果が届いた。

2人でテーブルを囲んで封を開ける。


──飲食用として問題なし。


「やった」


さつきの顔がほころぶ。


佳乃は報告書をもう一度読んだ。それから折りたたんで、棚の上に置く。


「試作します」


「うん」


「見んといてください」


「見るけど」



井戸から水を汲む。


バケツを引き上げると、手が冷たくなった。地下水特有の、きんとした冷たさだ。

石の匂いが混じっている。路地の春の空気とは、全然別の温度だった。


台所に戻って、仕込みを始める。粉に水を加えた瞬間、手が一瞬止まった。


違う、と思った。


良い悪いではなく、まず違う。いつもの感触に当てはまらなかった。


手にまとわりつくようでいて、離れるときはすっと離れた。

掴めているのか、逃げられているのか、少しわからない。

それでも、硬水で仕込んだときより、手に馴染む感覚があった。

高加水で仕込んでも、扱いやすかった。


さつきがいつのまにか横に来ていた。


「触らんといてください」


「わかってる。見てるだけ」


オートリーズ、捏ね、一次発酵。


発酵の進み方も、少し違う。

見た目は問題ない。

でも、時間の流れがいつもと噛み合っていない感じがした。

早いのか、遅いのか、判断がつかなかった。


「これ、今どの段階?」


「一次発酵です」


「あとどれくらい?」


「もう少し」


「もう少しって何分?」


「見てればわかります」


さつきが黙った。黙って、じっと生地を見ている。


パンチング、ベンチタイム、成形。


生地を丸めながら、佳乃は手の感触を確かめた。

柔らかい。締まりが少ない。でも、扱いやすかった。


クープを入れる。

霧を吹いて、オーブンへ。


ハードパン特有の、香ばしい焦げの香りが町家を満たしていく。

土間の古い木の匂いと混ざって、嗅いだことのない匂いになった。


焼き上がりを見た瞬間、佳乃は少し目を止めた。


クープの開きが、いつもよりいい。


良すぎる、と思った。

こんな開き方は、今まで一度もなかった。


皿に乗せて、切り分ける。クラムを見ると、気泡が大きかった。

断面が、今まで焼いたどのバゲットとも、少し違う。

揃いすぎている気もした。


一口。


モチモチ度が高い。

噛んだときに、少しだけ戸惑った。思っていたより軽く、思っていたより抜けがよかった。

クラストはしっかりしているのに、中が、ついてこない感じがした。

軽すぎて、どこか抜け落ちている気がした。


さつきが横から手を伸ばして、一切れ取る。


「……おいしい」


「そうですか」


「エビアンのときと全然違う」


「水が違うから」


さつきがもう一口食べた。


「これ、絶対ウケるよ。日本人好みだもん」


迷いなく言い切った。


「……フランスパンとしては」


「……ここで焼いてるのに?」


佳乃は答えなかった。答えが、すぐには出なかった。

さつきがもう一切れ取る。止める気にはなれなかった。



「またええ匂いしてるな」


引き戸の外から声がした。さつきが開けると、おばちゃんだった。買い物袋を提げている。


「食べますか」


佳乃が皿を持ってきた。さつきが勝手に「どうぞ」と言っていた。


おばちゃんは一切れ食べた。


「……うん」


もう一口。


「この前のも美味しかったけど、今日の方が柔らかくて、もっと好きやな」


さつきが振り返った。


「ほらね」


佳乃は何も言わなかった。

おばちゃんが「また焼いたら教えてな」と言って帰っていく。路地に夕日が差し込んで、石畳が橙色に染まっていた。


さつきが佳乃を見た。


「決まりじゃない。京都の井戸水で焼いたパン、って売りにしたら絶対いいよ」


佳乃は少し間を置いた。


「……そうですね」


さつきが「よし」と言って、小さく拳を握る。


佳乃は皿を片付けた。


手を動かしながら、さっき食べたときの感触を反芻する。

おいしかった。おばちゃんも喜んだ。

クープの開きもよかった。クラムの気泡も大きかった。


でも。


——軽い。


もう一度、口の中で確かめる。

それを「いい」と言い切れない自分がいた。


それが正しいのかどうか、まだわからなかった。ただ、何かが引っかかっている。

さつきには言わなかった。言葉にできるほど、まだはっきりしていなかった。



夜、さつきがスマホを見ていた。

佳乃は本を読んでいた。


「今日も宿ないなー」


「そうですか」


「……まあ、いっか」


さつきがスマホをしまう。


それ以上は何も言わなかった。

布団が、また並んで敷かれていた。

路地の向こうで、嵐電が走る音がした。


春の夜だった。

井戸の水の冷たさが、まだ指先に残っていた。


その冷たさが、少しだけ気になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ