第六話「京都の水」
午後の光が中庭に差し込んでいた。
さつきが段ボールを一つ運び終えて、中庭に出る。風が通った。春の終わりに近い、少し湿った風だった。
ふと、足が止まる。
中庭の隅に、竹で組まれた蓋があった。
何度も通り過ぎていた場所だった。見えていたはずなのに、そこに「何かがある」と思ったことは一度もなかった。今日になって、急にそれが「あるもの」として浮かび上がってきた。
手をかける。
「それ、触らんといてください」
台所から佳乃の声がした。
「何これ?」
「触らんといてください」
さつきは触った。
竹の蓋を持ち上げると、暗い穴があった。
石で丁寧に組まれている。覗き込むと、遠く底に水の気配があった。
冷たい空気が、穴の底から押し上げるように上がってくる。
湿っていて、少し古い匂い。
さつきは思わず顔をしかめた。
「……井戸?」
佳乃が台所から出てきた。蓋が外れているのを見て、少し目を細める。
「祖父の代から使うてなかったやつです」
「水、出るの?」
「さあ」
「出たとしたら——」
さつきが顔を上げて、佳乃を見た。
「これでパン焼いたら、どう思います?」
佳乃はすぐには答えなかった。
井戸を見た。竹の蓋を見た。さつきを見た。
「パンに使う水は、硬水の方がええんです」
「硬水?」
「ミネラル分が多い方が、生地が締まるんです」
「だから今、エビアン使ってるんですか」
「そうです。フランスの水に近い方が、本来のバゲットに近くなるから」
さつきが井戸を覗き込んだまま言った。
「でも、ここでやるんだから、京都の水のパンっていいよ」
「……」
「……ここで焼いてるのに?」
佳乃は少し黙った。言い返す言葉が、すぐには出てこなかった。正しいかどうかはわからなかった。でも、間違ってもいなかった。
「……まず水質検査です」
「え、やるの?」
「飲食用として問題があったら意味ないから」
さつきが顔を輝かせた。
水質検査の申し込みをして、結果が出るまで数日かかった。
その間も、2人はいつも通りだった。
佳乃はエビアンで仕込みを続け、さつきはロゴの細部を詰めた。
キーボードを叩く音が、土間に静かに響く。土間に差し込む春の光が、少しずつ傾いていく。
そういう午後が続いた。
おばちゃんが自転車を押して通りがかりに覗いた。
「あの井戸、使うの?」
「使うかもしれないです」
さつきが答えると、おばちゃんが「ほな楽しみやな」と言って帰っていく。
近所に筒抜けだった。佳乃は何も言わなかった。
数日後、検査結果が届いた。
2人でテーブルを囲んで封を開ける。
──飲食用として問題なし。
「やった」
さつきの顔がほころぶ。
佳乃は報告書をもう一度読んだ。それから折りたたんで、棚の上に置く。
「試作します」
「うん」
「見んといてください」
「見るけど」
井戸から水を汲む。
バケツを引き上げると、手が冷たくなった。地下水特有の、きんとした冷たさだ。
石の匂いが混じっている。路地の春の空気とは、全然別の温度だった。
台所に戻って、仕込みを始める。粉に水を加えた瞬間、手が一瞬止まった。
違う、と思った。
良い悪いではなく、まず違う。いつもの感触に当てはまらなかった。
手にまとわりつくようでいて、離れるときはすっと離れた。
掴めているのか、逃げられているのか、少しわからない。
それでも、硬水で仕込んだときより、手に馴染む感覚があった。
高加水で仕込んでも、扱いやすかった。
さつきがいつのまにか横に来ていた。
「触らんといてください」
「わかってる。見てるだけ」
オートリーズ、捏ね、一次発酵。
発酵の進み方も、少し違う。
見た目は問題ない。
でも、時間の流れがいつもと噛み合っていない感じがした。
早いのか、遅いのか、判断がつかなかった。
「これ、今どの段階?」
「一次発酵です」
「あとどれくらい?」
「もう少し」
「もう少しって何分?」
「見てればわかります」
さつきが黙った。黙って、じっと生地を見ている。
パンチング、ベンチタイム、成形。
生地を丸めながら、佳乃は手の感触を確かめた。
柔らかい。締まりが少ない。でも、扱いやすかった。
クープを入れる。
霧を吹いて、オーブンへ。
ハードパン特有の、香ばしい焦げの香りが町家を満たしていく。
土間の古い木の匂いと混ざって、嗅いだことのない匂いになった。
焼き上がりを見た瞬間、佳乃は少し目を止めた。
クープの開きが、いつもよりいい。
良すぎる、と思った。
こんな開き方は、今まで一度もなかった。
皿に乗せて、切り分ける。クラムを見ると、気泡が大きかった。
断面が、今まで焼いたどのバゲットとも、少し違う。
揃いすぎている気もした。
一口。
モチモチ度が高い。
噛んだときに、少しだけ戸惑った。思っていたより軽く、思っていたより抜けがよかった。
クラストはしっかりしているのに、中が、ついてこない感じがした。
軽すぎて、どこか抜け落ちている気がした。
さつきが横から手を伸ばして、一切れ取る。
「……おいしい」
「そうですか」
「エビアンのときと全然違う」
「水が違うから」
さつきがもう一口食べた。
「これ、絶対ウケるよ。日本人好みだもん」
迷いなく言い切った。
「……フランスパンとしては」
「……ここで焼いてるのに?」
佳乃は答えなかった。答えが、すぐには出なかった。
さつきがもう一切れ取る。止める気にはなれなかった。
「またええ匂いしてるな」
引き戸の外から声がした。さつきが開けると、おばちゃんだった。買い物袋を提げている。
「食べますか」
佳乃が皿を持ってきた。さつきが勝手に「どうぞ」と言っていた。
おばちゃんは一切れ食べた。
「……うん」
もう一口。
「この前のも美味しかったけど、今日の方が柔らかくて、もっと好きやな」
さつきが振り返った。
「ほらね」
佳乃は何も言わなかった。
おばちゃんが「また焼いたら教えてな」と言って帰っていく。路地に夕日が差し込んで、石畳が橙色に染まっていた。
さつきが佳乃を見た。
「決まりじゃない。京都の井戸水で焼いたパン、って売りにしたら絶対いいよ」
佳乃は少し間を置いた。
「……そうですね」
さつきが「よし」と言って、小さく拳を握る。
佳乃は皿を片付けた。
手を動かしながら、さっき食べたときの感触を反芻する。
おいしかった。おばちゃんも喜んだ。
クープの開きもよかった。クラムの気泡も大きかった。
でも。
——軽い。
もう一度、口の中で確かめる。
それを「いい」と言い切れない自分がいた。
それが正しいのかどうか、まだわからなかった。ただ、何かが引っかかっている。
さつきには言わなかった。言葉にできるほど、まだはっきりしていなかった。
夜、さつきがスマホを見ていた。
佳乃は本を読んでいた。
「今日も宿ないなー」
「そうですか」
「……まあ、いっか」
さつきがスマホをしまう。
それ以上は何も言わなかった。
布団が、また並んで敷かれていた。
路地の向こうで、嵐電が走る音がした。
春の夜だった。
井戸の水の冷たさが、まだ指先に残っていた。
その冷たさが、少しだけ気になった。




