第五話「売るパン」
朝から、佳乃が台所に入りっぱなしだった。
いつもと違う気配がした。道具の音が違った。集中しているときの、余分な音を立てない動き方だった。
呼吸の音まで、少しだけ遠かった
さつきは土間でMacBookを開いていたが、ほとんど作業が進んでいなかった。
台所の入口が気になって、視線がそっちに行った。
「見んといてください」
「見てるだけ」
「気が散ります」
「ごめん」
視線を外した。でも少ししてまた見ていた。
いつもの工程が、今日は少しだけ丁寧に見えた。
バゲットとカンパーニュ。
どちらも素材と発酵を重視した、余計なものを入れない系統のパンだった。
焼き上がりの匂いが町家に満ちてきた。
甘くない。素朴で、香ばしい。
腹が鳴った。
皿に切り分けられたバゲットとカンパーニュが、テーブルに並んだ。
さつきは一切れ食べた。
黙った。
もう一切れ食べた。
「……おいしい」
「そうですか」
「すごくおいしい」
さつきがまた食べた。今度はカンパーニュを。ゆっくりと、確かめるように。
「これ、好き」
噛むほどに味が出るタイプだ、とさつきは思った。
佳乃は何も言わなかった。でも肩の力が、少しだけ抜けた。
「ちゃんと売れるよ、これ。絶対」
「そうやったらええですね」
しばらく、2人でパンを食べた。路地の向こうで、鳩の声がした。春の静かな午後だった。
うまくいっている気がしていた。
「でも」
さつきが言った。
もう一口食べながら、少し考える顔をしていた。
「これだけだと……通う理由がないかも」
佳乃が顔を上げた。
「……どういうことですか」
「おいしいのはわかった。でも、毎週来たいかって言われると」
「毎週来てもらうために作る気はないです」
「え」
「おいしいパンが欲しいときに、来てもらえたらそれでええ」
さつきは少し考えて、それから言葉を探すように続けた。
「たとえばさ」
バゲットを指で軽く叩いた。
「こういうのって、すごくいいと思う。カンパーニュとかも。ちゃんとしたパンだし」
佳乃は何も言わなかった。
「でも、朝ふらっと寄ったときに、“今日はこれ買おう”ってなるかっていうと、ちょっと違うんだよね」
「……」
「バゲットって、“今日の気分で買うパン”じゃないじゃん」
「……そうですか」
「うん。どっちかっていうと、“ちゃんと食べるぞ”って日に買うやつ」
さつきはもう一口かじった。
「カンパーニュも、ブールも、パリジャンもさ」
バタールやクッペも、同じ線の上にある。
佳乃が少しだけ目を動かした。
「全部いいパンなんだけど、選ぶ理由が似てるっていうか」
「……似てる、とは」
「どれも、“パンが主役”の日に食べるパンなんだよね」
少し間があった。
「でもさ、毎日来る人って、そこまで構えてないと思う」
「……」
「なんとなく寄って、なんとなく買う。そのときに、“あ、これ食べたい”ってなるやつが一個でもあると、全然違う」
佳乃は静かに聞いていた。
さつきは少しだけ声を落とした。
「たとえば、あんバターとか」
間を置いて、
「カレーパンとか」
佳乃の表情は変わらなかった。
「作る予定はないです」
即答だった。
さつきが顔を上げた。
「なんで?」
「余計なものを入れなくていいから」
「余計って……」
さつきは言葉を選んだ。
「お客さんが“それ食べたい”って思うものも?」
「自分が作りたいものを作る。それがここの店やから」
佳乃の声は、静かだった。
でも、はっきりしていた。
「それに」
少しだけ間を置いた。
「パンは、粉と水と塩で十分です」
さつきが黙った。
「発酵で味は出るし、食べ方で変わる」
「……」
「余計なもので引っ張る必要はないです」
さつきはバゲットを見た。
それから、もう一口かじった。
「……おいしいんだけどな」
小さく呟いた。
少しだけ視線を上げて、
「でも、誰かに買ってもらわないと、店は続かないよ」
佳乃が黙った。
続かない、という言葉が、少しだけ刺さった。
わかっていた。
わかっていたけれど、言葉にされると、少しだけ手が止まった。
「あんバターとかカレーパンとか、一個でも入れたら全然変わると思う」
「入れません」
即答だった。
「なんで? おいしいじゃん、絶対」
「余計なものを入れたくないから」
「余計って、お客さんが喜ぶものが余計なの?」
「私が作りたいものを作る店やから」
「おいしいものを入れるのも、だめなの?」
さつきが少しだけ前に出た。
「それって、誰のための店なの?」
沈黙。
佳乃が答えなかった。
答えられなかった、ではなかった。答えが、すぐに出てこなかった。
目は逸らさなかった。
さつきも、言いすぎたかもしれないと思った。でも引かなかった。2人とも、黙ったまま、テーブルの上のパンを見ていた。
重い空気のまま、しばらくして、さつきが言った。
「河原町に、好きなパン屋あるんだよね」
「……そうですか」
「カレーパンも食パンも全部揃ってて。ああいう店、好きで」
「そうですか」
「ここと全然違うけど、どっちも好きだなって思って」
「……好きに行ったらええんちゃいますか」
さつきが少し黙った。
「そうじゃなくて」
「そうじゃないとは思てません」
さつきが何か言いかけて、やめた。
佳乃も何も言わなかった。
2人の間に、初めてちゃんとした沈黙が落ちた。今まで何度も沈黙はあったが、今日のは質が違った。重さがあった。
さっきまでの空気とは、明らかに
夕方になっても、2人はあまり喋らなかった。
さつきがMacBookを開いていたが、作業はほとんど進まなかった。画面を見ているのか、見ていないのか、よくわからない顔をしていた。
佳乃は台所の片付けをしていた。手を動かしながら、さっきの言葉を引きずっていた。誰のための店なの。その問いが、繰り返し戻ってきた。
「ご飯、作ろうか」
さつきが言った。
「ええです」
「作るね」
佳乃は返事をしなかった。でも止めなかった。
さつきが冷蔵庫を開けた。あるものを確かめて、鍋を出した。手際はよかった。余計なことを言わずに動いた。
2人でテーブルを囲んだ。
何も解決していなかった。でも、並んで食べた。
それは昨日までと同じで、少しだけ違っていた。
夜、布団に入ってからも、しばらく黙っていた。
天井を見たまま、さつきが言った。
「……ごめん、言いすぎた」
佳乃は少し間を置いた。
「言いすぎてはないです」
「でも」
「考えます」
さつきが黙った。
返ってくると思っていない言葉が返ってきたような、少し驚いた顔をした気がした。暗くてよく見えなかったが。
しばらくして、
「おやすみ」
「おやすみ」
さつきの寝息が、いつもよりゆっくり始まった。
佳乃は天井を見ていた。
誰のための店。
答えはまだ出ていなかった。
でも、手が、昨日とは違うことを考えはじめていた。
翌朝、佳乃は早起きした。
さつきがまだ寝ている時間に、台所に入った。
昨日と同じ道具を出した。でも、取り出すものが少し違った。くるみ。チーズ。
甘くない。でも具が入っている。
あんバターでもカレーパンでもない。自分が譲れる線が、ここだった。
素材として必然のもの。生地の仕事を主役にしたまま、くるみの歯ごたえとチーズの塩気が添える。そういうパンだった。
クッペの形に成形して、クープを入れて、オーブンへ。
焼き上がりの匂いが、昨日とは少し違った。
さつきが二階から降りてきた。
「なんか違う匂いする」
テーブルに、クッペが置いてあった。
「これ……くるみ? チーズ?」
「試作です」
さつきが一口食べた。
黙った。
もう一口食べた。
「……おいしい」
「そうですか」
「昨日と、違う」
「そうですね」
さつきが佳乃を見た。佳乃は台所の片付けをしていた。
「……ありがとう」
「試作なので」
「それでも」
佳乃は返事をしなかった。
片付ける手が、少し丁寧だった。
さつきがもう一口食べて、
「これ、絶対売れる」
「……考えます」
また同じ言葉だった。
でも、昨日とは温度が違った。




