第四話「勝手にできている」
朝の掃除が終わって、2人でお茶を飲んでいた。
今日のさつきの箒さばきは一尺三分というところだった。
昨日より一分だけ近づいていた。
惜しい、とは言わなかった。
言わなくてもさつきはまた明日試みるだろう。
むしろ、明日は一尺二分を目指してくる気がした。
そういう人だった。
春の光が土間に差し込んで、湯気がゆっくりと立ち上った。
さつきはいつものように喋っていた。
昨日見た嵐電の話、路地の猫の話、北野天満宮の梅がもう終わってたという話。
途中で話題が飛んでも、本人は気にしていなかった。
返事をしなくても続いた。
川みたいに流れる話し方だった。
聞いていなくても怒らないし、聞いていると嬉しそうにする。
不思議な話し方だった。
「ねえ、私のこと『さつき』って呼んでよ」
「……桐原さん、でええんやないですか」
「よくない」
「……」
「さつき」
「……さつき、さん」
「さんいらない」
「注文多いですね」
「多いよ。私、名前呼ばれたいタイプだから」
佳乃は湯呑みを置いた。
「それに……ずっと呼ばれなかったからさ」
「……さつき」
呼び慣れていない音が、少しだけ引っかかった。
舌の上で転がすような、慣れない響きだった。
「そう! じゃあ私も佳乃ね」
「……」
否定しなかった。
否定する理由が、特に思いつかなかった。
さつきは満足そうに湯呑みを両手で持ち直した。
路地の向こうで、自転車が通り過ぎた。
春の朝の静かな音だった。
お茶が、ちょうどいい温度になっていた。
「佳乃って、呼びやすいね。なんか、やわらかい」
「そうですか」
「うん。言ってて気持ちいい」
佳乃は返事をしなかった。
でも、悪い気はしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
佳乃が一階の寸法を測っていると、
二階からキーボードを叩く音がして、
しばらくして、さつきがMacBookを持って降りてきた。
「見て見て!」
ディスプレイを向けてきた。
近い。距離が近い。
でも、もう驚かなくなっていた。
ロゴのラフが3パターン。
看板の配置イメージ。
ショップカードのラフ。
どれも小麦のモチーフと和文を組み合わせた方向性で、まだ線が荒かった。
丁寧に作ってある、という感じはあった。
勢いと熱量で描いた線だった。
「頼んでないんやけど」
「わかってる。でも作りたくて。こういうの好きなんだよね、私」
さつきがディスプレイをもう少し近づけた。
佳乃の肩に軽く触れたが、本人は気づいていないようだった。
触れている時間が、少し長かった。
「朝、路地の入口から見てたんだけど、看板は右より左の方がいいと思って。軒の出方と、光の入り方で。あと、通りから歩いてくる人の目線がこっちに来やすい」
佳乃はメジャーを置いた。
ディスプレイを見た。
看板の位置が、確かに左だった。
自分も漠然とそう思っていた場所だった。
思っていたけれど、言葉にしていなかった。
「……悪くはない」
「でしょ!」
さつきが顔を輝かせた。
褒められた犬みたいに、素直に嬉しそうだった。
「店名決まったら、ちゃんと作れるんだけど」とさつきが言った。
「今はここが空白で」
ディスプレイの中のロゴに、店名が入るはずの白い空間があった。
佳乃はもう一度、そこを見た。
「店名、何にするの?」
さつきが訊いた。
「まだ決めてない」
「じゃあ今決めよう」
「そんな急に」
「いや、ロゴちゃんと作れないじゃん。空白が気になるの」
佳乃は窓の外を見た。
路地に花びらが積もっていた。
今日もさつきが掃いた分だった。
一尺三分の成果だった。
「白梅ベーカリー、とか」
「普通すぎます」
「北野小麦店」
「豆腐屋みたいです」
さつきが一瞬だけ黙った。
「豆腐屋……あ、お実家が」
「そうです」
「じゃあなおさらかぶったらダメなやつだ」
「そうです」
「じゃあどんなのだったらいいんだろうね?」
「わからんから今考えてるんやないですか」
2人とも黙った。
土間に光が動いた。
春の雲が流れているのかもしれなかった。
路地の向こうで、嵐電が走る音がした。
遠く、鳩の声がした。
「小麦と……って意味で、コムギト、とか」
さつきが言った。
佳乃は少し間を置いた。
声に出して、確かめるように。
「……コムギト」
口に出すと、少しだけ現実味があった。
「どう?」
「……ええんちゃう」
さつきが即座にキーボードを叩いた。
ロゴの空白に「コムギト」という文字が入った。
まだ仮のフォントで、荒削りだった。
「これはまだラフね。ちゃんとしたのは後で作る」
さつきがMacBookを佳乃の前に向けた。
コムギト、という文字が、初めて形になった。
2人とも、しばらく黙ってそれを見ていた。
言葉が出なかった。
出す必要もなかった。
午後、佳乃が台所に入った。
さつきは土間でMacBookを開いて作業していた。
ときどき「これどう思う?」と画面を向けてきたが、
佳乃は「後で見ます」と言いながら生地に集中していた。
オートリーズ、捏ね、一次発酵。
手が動くと、余計なことを考えなくてすむ。
パンチング、ベンチタイム、成形。
「なんかすごいね、見てると」とさつきが言った。
「見んといてください」
「なんで」
「気が散ります」
「あ、ごめん」
さつきが視線を外した。
でも少しして、また見ていた。
気づくと近くにいる人だった。
予熱、クープ入れ、オーブンへ。
しばらくして、焼き上がりの匂いがした。
甘くない、素朴な、どこか懐かしい匂い。
佳乃がミトンを着けた手で天板を持って出てきた。
食パンとバゲットだった。
さつきがバゲットを一切れ食べた。
「おいしい」
「そうですか」
しばらく食べて、さつきが言った。
「甘いのないの?」
「ないです」
「カレーパンとか、あんバターとか」
「作る予定はないです」
即答だった。
「なんで?」
「余計なものを入れなくていいから」
さつきはもう一口かじった。
それから少し考えるような顔をした。
「パン屋って、入った瞬間に"今日はこれ買おう"ってなるものが欲しいんだよね」
「あんバターとか見たら、もうそれだけで寄っちゃう。あの感じ、好きで」
「作りません」
「……おいしいんだけどな」
さつきがバゲットをもう一口食べた。
食べながら、小声で、
「毎日来る理由、かな……」
と言った。
佳乃には聞こえていなかったかもしれなかった。
聞こえていたかもしれなかった。
佳乃は台所に戻った。
片付けをしながら、さっきの言葉が、手の動きに少しだけ残っていた。
夕方、さつきのスマホが鳴った。
佳乃は台所で片付けをしていた。
さつきが「ちょっと」と言って、表に出た。
引き戸越しに、声が少し聞こえた。
「うん……そうだね……わかった」
少し間があった。
「まあ、戻るかもね」
それだけだった。
さつきが戻ってきた。
いつもなら扉を開けた瞬間から何か喋っている。
でも今日は、一拍あった。
「誰から?」
佳乃が訊いた。
台所から顔を出さずに。
「昔の友達」
少しだけ遅れて、言葉が出た。
「そう」
それだけだった。
それ以上訊く理由が、思いつかなかった。
さつきはMacBookの前に座った。
開こうとして、そのまま静かに閉じた。
閉じる手つきが、いつもと少し違った。
佳乃は台所の中で、しばらく手を止めていた。
何を聞いたのかは、訊かなかった。
訊けなかった、ではなく、訊かなかった。
その違いを、自分でも少し不思議に思った。
夜、さつきが先に布団に入った。
「コムギト、ちゃんとしたの、そのうち作るね」
「はい」
「楽しみにしといて」
「はい」
「……おやすみ、佳乃」
少し間があって、
「……おやすみ、さつき」
さつきの寝息が聞こえてきた。
早かった。いつものことだった。
テーブルの上に、MacBookが開いたままだった。
画面が薄く光っていた。
仮の「コムギト」のロゴが、そこにあった。
まだ荒削りで、小麦の穂のモチーフがうっすら見えていた。
佳乃はしばらくその画面を見ていた。
画面の中だけが、先に進んでいた。
指を伸ばしかけて、やめた。
窓の外で、花びらが一枚、落ちた。
どこかで、戸が閉まる音がした。




