第三話「いることになっている」
佳乃が箒を持って表に出ると、
まだ朝の光が路地に届ききらない時間だった。
花びらが薄く積もって、風が吹くたびにふわりと舞い上がった。
湿った木と、夜の冷たさと、春の甘い匂いが混ざっていた。
そのとき、二階からどたどたと足音がして、
さつきが勢いよく降りてきた。
「手伝う!」
「ええです」
「いや手伝うって! 朝の掃除って気持ちいいじゃん、こういう路地!」
言い終わる前に、箒がひょいと奪われていた。
さつきは元気よく掃きはじめた。
元気よく、というより、勢いよく。
花びらが右へ左へ、見事に飛んでいく。
佳乃は縁側に腰を下ろして、しばらく見ていた。
……あ。
さつきは佳乃の家の前の花びらを、
両隣に向かって、豪快に掃き送っていた。
悪気はなかった。
これっぽっちも、なかった。
「……それは、あかんやつです」
「え?」
「両隣に送ってどないするんですか」
「え、どういうこと?」
「自分の家の前だけ掃くんです。隣に送ったら、隣が困ります」
さつきが箒を持ったまま固まった。
路地の向こうで、自転車が通り過ぎる音がした。
春の朝の湿った空気が、二人の間にふわりと流れた。
「……じゃあ、花びらどこ行くの?」
「ちりとりでちゃんと取って下さい」
「なるほど。ちりとりどこ?」
「土間の隅です」
「了解!」
さつきは素直に引き返して、
ちりとりを探しはじめた。
探しながら、なぜか鼻歌を歌っていた。
妙に明るい鼻歌だった。
「あと」と佳乃が言った。
「両隣とお向かいの分も、ちょっとだけ掃きます」
「え、さっき隣に掃いたらダメって」
「掃き送るんやなくて、自分の家の前から一尺ほどは綺麗にします。気持ちの問題です」
「一尺…むず。これ無理じゃない?」
「慣れます」
さつきはちりとりを持ったまま、
しばらく頭を捻っていた。
春の光が少しずつ強くなって、
花びらがきらきらと光った。
「わかった!」
さつきは箒を持ち直し、
今度は慎重に、慎重に掃きはじめた。
慎重すぎて、ほとんど前に進んでいなかった。
少しして、佳乃は縁側から立ち上がった。
さつきが両隣とお向かいを、
それぞれ三尺ほど掃いていた。
「……掃きすぎです」
「えー!?でもさ、どうせなら多めにやった方がよくない?」
「それはかえって嫌味です」
「むず……京都むず……」
「慣れます」
「一尺ってどれくらい?」
佳乃は黙って自分の足を示した。
一足分、ほぼそのくらいだった。
「え、短い」
「短くていいんです」
「ルール細かすぎない?」
さつきはまた素直に引き返した。
佳乃は箒を取り返した。
ちりとりは、そのままさつきに持たせた。
佳乃は一度だけ顔を上げた。
さつきを見て、何も言わずに箒を持ち直した。
片付けの続きをしていると、
路地の向こうから自転車を押したおばちゃんが来た。
よく顔を合わせる、多分、近所の人。
佳乃の顔を見て「あら、今日もお片付け?」と言いかけて、
さつきを見て止まった。
「どちらさん?」
佳乃が答えるより先に、
さつきが一歩前に出た。
「桐原さつき。東京から来ました」
「東京から?エラい遠いトコからご苦労さんやけど、何しにきはったん?」
「京都が好きで。町家も好きで。パンも好きです。」
「元気なお嬢さんやねえ」
「つい」
「住まはるん?」
「まだ決まってません。でも、ここいいなって思ってます」
おばちゃんが佳乃を見た。
佳乃は何も言わなかった。
おばちゃんはさつきを見た。
さつきは満面の笑みだった。
「まあ、ええか」
おばちゃんはそう言って自転車を押していった。
さつきが佳乃を見た。
「感じいい人だね」
「そうですね」
「京都の人って冷たいって聞いてたけど」
「人によります」
「じゃあ当たりだ」
「……そうですね」
さつきはまた作業に戻った。
佳乃も戻った。
なんか、さつきの距離が近くなってない?
そう思いつつも、別に気にはならなかった。
しばらくして、
さつきがふと思い出したように言った。
「パン屋やると思うんだよね、ここ」
佳乃は答えなかった。
「いや絶対向いてるって。土間あるし、外から見えるし」
「動線もいいしさ」
「ていうかもう、ほぼパン屋じゃない?」
さつきは勝手に頷いた。
そのまま振り向いた。
おばちゃんが戻ってきていた。
買い物袋を提げていた。
「この人、ここでパン屋やると思うんです」
佳乃は、さつきを見た。
おばちゃんが立ち止まった。
「ほんまに?」
今度は佳乃に向かって訊いた。
さつきも、佳乃を見た。
目が期待で丸くなっていた。
佳乃は一拍置いた。
「パン屋、やろうと思てます」
「やっぱり」
「はい。やっぱりです」
「じゃあさ」
「私もなんかやっていい?」
佳乃は答えなかった。
止めなかった。
おばちゃんは「ほんまに? ここで?」と言って、
町家をぐるりと見回した。
それからにっこりした。
「ええやん。楽しみにしとくで」
少し間を置いて、
「毎日でも来る」
おばちゃんはそう言って帰って行った。
路地が静かになった。
さつきがまだ町家を見回していた。
土間、竈の跡、佳乃の祖父が作った棚。
「いつから考えてたの?」
「少し前から」
「そういうことか」
何がそういうことなのか、佳乃は訊かなかった。
昨日と同じ言葉だった。
午後、佳乃は台所に立った。
古い台所だった。
コンロは使えた。
家庭用の小さなオーブンが一台。
修業時代に使っていた道具を、少しだけ持ってきていた。
オートリーズ、伸ばし捏ね、叩き捏ね、一次発酵。
体が覚えた流れに従う。
さつきは土間で段ボールの整理をしていた。
時々「これ何?」「これは捨てていいやつ?」と訊いてきたが、
佳乃が返事をする前に勝手に仕分けていた。
パンチング、ベンチタイム、成形、二次発酵。
「ねえそれ今どの段階?」「これ何してるの?」「触っていい?」と、
横から絶えず声が飛んでくる。
「触らんといてください」
「はーい」
予熱、クープ入れ、霧吹き。
オーブンのドアを開け、生地の乗った天板を滑り込ませる。
しばらく忘れていた懐かしい匂いが漂い始めた。
香ばしく、どこか懐かしい、胸の奥をくすぐるような匂い。
「え、なんかいい匂いする! パン!? パンだよね!?」
さつきが土間から顔を出した。
佳乃が皿を持って出てきた。
小さく切ったバゲットが乗っていた。
「焼き立てです」
それだけ言って置いた。
さつきは一切れ食べた。
目が一瞬で丸くなった。
「……おいしい」
「そうですか」
「なんで『そうですか』なの」
「何となくで焼いたものなので」
「でもさ」
「これ、外に出した方がいいよ」
「外、ですか」
「でもこれ、毎日食べる感じじゃないよね」
佳乃は何も言わなかった。
でも、さっきより少しだけ長く、皿を見ていた。
「何となくでこれって、どういうこと……?」
さつきはまた一切れ食べた。
春の光が土間に差し込んでいた。
路地の向こうで、嵐電の音がした。
夕方、引き戸をノックする音がした。
さつきが開けると、おばちゃんだった。
「外に、パンの匂いがしてるけど」
さつきが佳乃を見た。
佳乃が皿を持ってきた。
バゲットの余りが、まだ少し残っていた。
「食べますか」
おばちゃんが一切れ食べた。
しばらく黙って、
「……これ、売りもんやったら買うで」
「すみません、余り物です」
「余りでもええ。また焼いたら食べさせて」
おばちゃんが帰った。
さつきが佳乃を見た。
「今の人、また来ると思う」
佳乃は答えなかった。
でも、皿を片付ける手が、
少し丁寧だった。
夜、さつきはスマホを見ていた。
画面に「空室あり」の文字が一瞬見えた。
さつきはすぐに閉じた。
「今日も宿ないなー」
独り言のような言い方だった。
佳乃は本を読んでいた。
「そうですか」
「来週くらいには空くかな」
「さあ」
「……まあ、いっか」
さつきがスマホをしまった。
それ以上は何も言わなかった。
布団は今日も、並んで敷かれていた。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝、さつきがまた先に表に出て掃いていた。
今日は一尺半だった。
「……惜しい」
「でも昨日より上手くなってると思う」
佳乃は何も言わなかった。
ただ、
春の光の中で、
花びらがまた積もっていた。




