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第二話「まだ、居た」

引き戸を広く開けたまま、佳乃は見ていた。


さつきが、紙袋を提げたまま満面の笑みで立っていた。


「龍安寺、行ってないです」


先手を打つように言った。


「知ってます」


「え、なんで」


「反対方向ですから。さっき出て行ったばかりやし」


さつきが固まった。五秒ほど固まって、それから「あはは」と笑った。

悪びれない笑い方だった。屈託がなかった。


「昨日のお店で買ってきました」


紙袋を差し出した。佳乃は無言で受け取った。中にはあんバターが入っていた。


「……なんで」


「昨日、それ選んでたから」


佳乃は何も言わなかった。


昨日、残ったのがあんバターだっただけだ。なのにこの人は「選んでた」と言う。


「上がりますか」


「あ、いいんですか」


「昨日も上がってましたけど」


「確かに」


さつきはキャリーケースを玄関の脇に置いて、当然のように上がり込んできた。


段ボールはまだ残っていた。仕分けの終わっていない荷物が、土間の隅に積まれていた。

祖父が残したものは多かった。物の多い人だった。


さつきは「また手伝います」と言いながら、もう箱を持ち上げていた。


佳乃は止めなかった。


昨日はまだ、止め方がわからなかった。今日はもう、なかった。


運びながら、さつきがまた喋った。昨日と同じように、返事を要求しない喋り方で。

ただ昨日と少し違うのは、佳乃が時々、短く返すようになっていた。


「この棚、いい木ですね」


「祖父が作ったやつです」


「え、自分で?」


「大工やったから」


「へえ」


さつきが棚をしげしげと眺めた。

手を伸ばしかけて、止めた。

昨日、引き戸に手を伸ばしかけて止めたときと同じだった。


「捨てないんですか」


「捨てません」


「そうですよね」


さつきが静かに言った。それだけだった。


「判断できないもの」の箱が、ひとつ減っていた。



休憩のとき、佳乃が急須でお茶を淹れた。


昨日さつきが見つけた、棚の上の急須に、今日は自然に手が伸びた。


さつきが湯呑みを両手で持って、一口飲んだ。


「おいしい」


「祖父が好きやったお茶です」


春の光が土間に差し込んで、湯気がゆっくりと立ち上った。路地の向こうで、自転車が通り過ぎる音がした。


しばらく黙って、佳乃が訊いた。


「昨日、なんでパン屋って言うたんですか」


さつきが湯呑みを持ったまま、少し考えた。


「なんとなく、そう見えたんですよね。この場所が」


「なんか、においがするじゃないですか。ここ」


佳乃は何も言わなかった。


「パンのにおいじゃないですよ。なんか、食べものを作る場所のにおい、みたいな」


土間の奥に、竈の跡があった。


「……あなた、パン屋に行くことよくあるんですか」


「好きなんですよね、パン屋。なんか落ち着くから。入った瞬間の、あのにおい」


「製パン、やったことは」


「ないですけど」


とさつきが言って、少し首を傾げた。


「普通、あんまりないですよね」


佳乃は湯呑みを置いた。


「私は、あります」


さつきが顔を上げた。


「製パン学校、出てるんで」


「え」


「卒業してから、市内の店で4年ほど」


さつきが湯呑みをゆっくりと置いた。それから町家を見回した。土間、竈の跡、祖父が作った棚。昨日から何度も見ている景色を、もう一度、今度は違う目で見ていた。


「……そういうことか」


何がそういうことなのか、佳乃は訊かなかった。さつきも説明しなかった。


お茶が、少し冷めた。



「二階、見てもいいですか」


午後になってから、さつきが言い出した。


「どうぞ」


急な階段を上ると、窓があった。

白梅町の屋根が、春の空の下に広がっていた。瓦が光っていた。路地が細く走っていた。遠くに嵐電の架線が見えた。西の空が少し霞んでいた。


さつきが、はじめて黙った。

さっきまであんなによく喋っていた人が急に黙ると、部屋が広くなったような気がした。


「きれいですね」


佳乃は答えなかった。隣にいた。

2人とも何も言わなかった。路地の向こうで、嵐電が走る音がした。遠く、北野天満宮の方から鳩の声がした。


さつきがまた喋りだしたのは、しばらく経ってからだった。


「ここ、好きです」


「そうですか」


「なんか、ここにいると落ち着く」


さっきパン屋の話をしたときと、同じ言い方だった。佳乃は気づいていたが、何も言わなかった。



二階から降りてきたところで、佳乃のスマホが鳴った。

母からだった。


「あの町家、どないするつもりなん。お父さんも、そろそろ決めてほしいって言うてるで」


「……まだ考えてます」


「いつまで考えてるん。売るんやったら不動産屋に話だけでも——」


「わかってます」


「わかってるんやったらね」


電話が切れた。


さつきは棚の整理をしていた。

振り返らなかった。

少しして、「お茶、もう一杯いいですか」と言った。


佳乃はスマホを鞄に戻した。


しばらくして、さつきがスマホを取り出した。


「そういえば、ゲストハウスちゃんと探さないと」


「そうですね」


検索しながら、さつきの顔が少しずつ曇っていった。一軒、二軒、三軒。

画面をスクロールするたびに、眉が少し下がった。


「……全然あいてない」


「春ですから」


「どこも満室って」


「そうですか」


「河原町の方は」


「もっと埋まってると思います」


「そうか……」


さつきが膝の上でスマホを持ったまま、少し黙った。


「どうしよう」


「どうしましょう」


佳乃が繰り返した。


さつきが顔を上げて、佳乃を見た。佳乃はさつきを見ていた。


「今日も、泊めてもらえますか」


一拍の沈黙。


「……布団、昨日干しました」


さつきは少し考えた。


「……あ」


佳乃はうなずいた。


「ありがとうございます」


「別に」


「いや、ほんとに助かります」


「別に」


佳乃は繰り返した。さつきはまた笑った。よく笑う人だった。



夜、さつきが先に寝息を立てはじめた。

あっという間だった。昨日もそうだった。


佳乃はしばらく天井を見ていた。梁の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。

今日、さつきに言った言葉を思い返した。


製パン学校、出てるんで。


声に出したのは久しぶりだった。修業先を辞めてから、誰かに言ったことがなかった。訊かれることもなかった。

4年ほど修業した。腕はある。場所もある。あとは——


静かに起き上がって、一階に下りた。


父に電話した。時計は11時を過ぎていたが、父は起きていた。いつもそうだった。


「あの町家、使わせてもらえますか」


「何に使うん」


一拍置いて、


「パン屋、やろうと思て」


初めて口に出した言葉だった。そこでようやく、形になった。

父は少し黙って、「そうか」と言った。それだけだった。森下家の人間は、みんな言葉が少ない。


電話を切って、二階に戻った。


さつきはまだ寝ていた。

隣で、規則正しい寝息が聞こえた。


誰に背中を押されたのかは、わからなかった。

でも、さっきまでなかった言葉だった。



翌朝、佳乃は箒を持った。

路地を掃いた。両隣の分も、一尺ほど。

花びらが、また積もっていた。


二階から、さつきの声がした。


「おはようございます、お茶ありますか」


まだ、居た。

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