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第一話「春、勝手に入ってきた」

桜が散りはじめていた。


段ボール箱を抱えて表に出る前に、佳乃はまず箒を持った。

路地に積もった花びらを掃く。自分の家の前だけでなく、両隣の分も一尺ほど。

掃いても掃いても積もる季節だとわかっていても、掃かないという選択肢はなかった。


花びらは、掃いてもまた戻ってきた。


町家の中は、埃と春の光が混ざった匂いがした。古い木と、長い時間の匂い。

祖父が残したものは、思っていたより多かった。

思い出の重さというより、ただの物の多さだった。

古い雑誌、欠けた茶碗、用途のわからない道具類。祖父はものを捨てない人だった。


佳乃は黙々と仕分けた。

捨てるもの、残すもの、まだ判断できないもの。

判断できないものが、一番多かった。


四箱目を取りに戻ろうとして、古い柱に手が触れた。木の感触が、思ったより温かかった。佳乃はそのまま少しだけ手を止めた。

特に何も考えていなかった。ただ、手が止まった。


路地は静かだった。

西大路の向こうから車の音がかすかに届くだけで、ここまで来る人間はほとんどいない。

嵐電の駅をおりて、西大路を渡らずにこのブロックに入ると、空気が変わる。

観光客の足音が消えて、自転車と、宅配便と、猫だけになる。


手を離して、四箱目を取り上げた。


「あの、すみません」


表に出たところで声をかけられた。


振り向くと、女が立っていた。キャリーケースを引いて、バックパックを背負って、それでもやけに身軽そうな顔をしていた。


「龍安寺って、どうやって行けばいいですか」


馬代通を上ル——と言いかけて、佳乃は気づいた。


女の視線が、自分ではなく町家に向いていた。

引き戸の木目、軒の曲線、奥へ続く土間の薄暗さ。

値踏みじゃない。ただ純粋に、吸い込まれるように見ている。


女はそのままキャリーケースを引いて、佳乃の横をすり抜けた。

引き戸に手を伸ばしかけて、さすがに止まった。止まって、佳乃を見た。


「中、見てもいいですか」


他人の家に対して言う言葉ではなかった。


「……祖父の家です」佳乃は言った。「片付けてます」


「へえ」


女は引き戸の前で、ゆっくりと町家を見回した。

軒先、古い木の節、路地に落ちる影。


それから佳乃を見て、また町家を見た。


「パン屋さんとかにしたら、絶対いいのに」


佳乃は返事をしなかった。


この町家をどうするか、まだ誰にも言っていなかった。頭の中にあるものは、まだ言葉になっていなかった。

それを、見ず知らずの旅行者に、最初の五分で言い当てられた。


道を教える気が、なぜか失せた。

龍安寺への道よりも、この人がどこへ行くのかが、なぜか気になった。


「今日、泊まるところ決まってはるんですか」


春の京都に、キャリーケースひとつ、バックパックひとつで午後から現れて、ゲストハウスをこれから探す、などという人。

訊いといた方がええやろ、と思っただけだった。


ところが女は「あ、この辺にありますか?」と、けろっとしていた。


「西大路を少し下ったところに一軒あります」


「遠いですか」


「歩いて五分です」


「じゃあ後で行きます」


後で。


佳乃がその「後で」の意味を考える前に、キャリーケースが玄関の脇に置かれるのを見た。バックパックも、その隣に。


「片付け、手伝いますよ」


もう中を覗いていた。


佳乃は止めなかった。

止め方が出てこなかった、というより、なぜか止めなかった。

佳乃は五箱目を持ち上げた。



桐原さつき、と名乗った。

東京から来た、と言った。


それ以上は聞いていないのに、勝手に喋った。


「なんかずっと来たかったんですよね、京都。うまく説明できないんですけど」


「そうですか」


「荷物多くてすみません。でもこれでも減らしたんです」


「そうですか」


「お祖父さんの段ボール、何が入ってるんですか全部」


「わからないものが多いです」


「あー、わかります。私も捨てられなくて。だからこんなに荷物が」


佳乃は段ボールを持ったまま、さつきを見た。


「それは別の話では」


さつきは一瞬きょとんとして、それから笑った。


「確かに」と言って、段ボールを一つ持ち上げた。「これ、どこ出しますか」


よく喋ったが、返事を要求しない喋り方をした。

佳乃が相槌を打っても打たなくても、川が流れるように言葉が続いた。

最初は少し煩わしかった。でもしばらくすると、その声が町家の静けさに、なぜか、溶けていった。


二人で運ぶと、思ったより早く片付いた。



夕方になって、土間に光が斜めに差し込んできた。さつきが鞄から紙袋を取り出した。


「さっき買っといたんですけど、食べますか」


紙袋を差し出した。あんバターとカレーパンだった。


「どっちがいいですか」


「……どちらでも」


「じゃあ私がカレーパンで」


佳乃は無言であんバターを受け取った。ひとくち食べた。バターの塩気と、あんこの甘さが、ちょうどよく混ざっていた。

さつきはカレーパンをかじりながら、町家をゆっくりと見回した。土間の奥、竈の跡、煤けた梁。値踏みでも品定めでもなく、ただ、好きなものを見る目だった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。

路地に夕日が落ちて、町家の中がゆっくりと橙色に染まっていった。遠くで嵐電の音がした。


さつきがいるのに、静かだった。


日が傾いて、そろそろ帰らなあかん、と佳乃が思いはじめた頃、さつきが立ち上がった。


「ゲストハウス、行ってきます」


「あ、はい」


キャリーケースを引いて、さつきは路地を歩いていった。角を曲がるまで振り返らなかった。

佳乃は一人になった町家で、残った段ボールを片付けた。静かだった。さっきまでの、あの声がない静かさだった。


十分ほどして、表で音がした。

引き戸を開けると、さつきが立っていた。キャリーケースを引いたまま。


「……なんで戻ってきてはるんですか」


「満室でした」


「……」


「春だからですかね、やっぱり」


さつきは特に困った顔をしていなかった。それが佳乃には、少し不思議だった。


佳乃は少し考えた。正確に言うと、考えるふりをしながら、どうするかを測った。


西大路沿いにもう一軒あるが、あそこも繁忙期は埋まる。

四条や河原町まで出れば別だが、この時間から荷物を引いて移動させるのは、さすがに——


「……ここ、泊まりますか」


声に出してから、少し驚いた。

自分が言うつもりで言ったのか、そうでないのか、わからなかった。


「え、でも」


「布団あるか確認します」


押し入れを開けると、布団が出てきた。長年しまいっぱなしの、かびくさい布団が2組。


「日に当てんと使えませんね」


「今から干せますか」


「……日が落ちかけてます」


「じゃあ干しましょう、急いで」


さつきはもう縁側に向かっていた。佳乃は一瞬だけ目を閉じて、布団を抱えた。


二人で縁側に布団を叩いた。埃が舞った。花びらが混じった。


「わ、すごい埃」


「文句言わんといてください」


さつきはまた笑った。よく笑う人だった。


夕日が路地の端まで伸びて、布団がうっすら橙色に染まった。



夜、佳乃は実家に電話した。


「今日、おじいちゃんとこに泊まるわ」


母が「あら、そう」と言った。それだけだった。


電話を切って、土間に戻ると、さつきが古い急須を見つけて「お茶、あります?」と言っていた。


「棚の上」


「あ、……ほんまや、って言うんですよね、こういうとき」


違います、と佳乃は静かに答えた。

アクセントが違う。


夜が更けて、二人は並んで布団に入った。天井に古い木の梁が走っていた。


「広いですね、ここ」


「……そうですね」


「パン屋、似合うと思いますよ、ほんとに」


佳乃は返事をしなかった。


しばらくして、さつきの寝息が聞こえてきた。早かった。あっという間だった。


佳乃は天井を見ていた。梁の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。

朝、手が止まった、あの柱の感触を思い出した。

温かかった。

木が、ではなくて——なんだろう。うまく言葉にならなかった。


隣で、さつきが寝返りを打った。

なんで泊めたんやろ、と思った。でも、なんでかは、わからなかった。


翌朝、目が覚めたら、さつきはもう起きていた。

縁側に座って、路地を眺めていた。朝の光の中で、花びらがまた積もっていた。


「おはようございます」


「……おはようございます」


しばらく、二人とも何も言わなかった。


「じゃあ、行きますね」


さつきが立ち上がって、バックパックを背負った。


「また来てもいいですか」


佳乃は少し間を置いた。


「どうぞ」


さつきは笑って、キャリーケースをがらがら引きながら路地を歩いていった。角を曲がるまで振り返らなかった。

佳乃は箒を持った。路地を掃いた。両隣の分も、一尺ほど。


昨日の続きを片付けた。


静かだった。


何かが足りないような気がした。判断できないものが、また少し増えていた。


──一時間も経っていなかった。

表で音がした。


「また来ちゃいました」


引き戸を開けると、さつきが立っていた。手に紙袋を提げていた。


「龍安寺の帰りに買ってきました、ここのパン美味しくて」


「龍安寺の帰り」


「はい」


佳乃は紙袋を見た。

昨日、さつきが出したお店の袋。

嵐電の北野白梅町駅、改札を出てすぐの店の袋だった。


「……龍安寺、反対方向ですよね」


さつきは一瞬だけ目を逸らして、それから満面の笑みを向けた。


佳乃は何も言わなかった。


ただ、引き戸を少し、広く開けた。

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