第十話「足りない」
朝の掃除を終えて土間に入ると、佳乃はテーブルに向かった。
紙を出した。
数字を並べた。
貯金。実家の援助。見積もり。オーブン。初期の仕入れ。
先週も、同じことをした。
数字は変わっていなかった。
融資は、難しいと言われた。実績のない開業者には、厳しい。
実家は、先週伝えた額が限界だった。
見積もりは、届いた日から変わっていない。
引いて、残った数字を見た。
足りない。
声には出さなかった。紙の上に、ただそれだけがあった。
紙を折りたたんで、棚の上に置いた。先週の封筒の隣に、並べた。
さつきが二階から降りてきた。寝癖がついたままだった。
「おはよう」
「おはようございます」
さつきが湯呑みを棚から出した。お茶を淹れた。佳乃の分も、黙って置いた。
テーブルの上の紙を、さつきは見なかった。
見えていたはずだった。でも、訊かなかった。
2人でお茶を飲んだ。
初夏の光が土間に差し込んでいた。路地の向こうで、自転車が通り過ぎる音がした。
さつきは何も言わなかった。
湯呑みを両手で持ったまま、ただそこにいた。
午前中、佳乃は台所に入った。
粉を量った。
水を加えた。
にがりの小瓶を取り出して、数滴垂らした。
手が動いた。体が動いた。
でも、頭の中は、別のところにあった。
先週、紙に書いた数字を思い出した。
今朝、もう一度並べ直した数字を思い出した。
どちらも、同じ答えだった。
捏ねながら、窓の外を見た。
中庭の井戸が見えた。竹の蓋が、いつもと同じようにそこにあった。
一次発酵に入れた。
台所を出ると、さつきがMacBookを開いていた。
画面を見ているのか、見ていないのか、よくわからない顔をしていた。
「作業してないんですか」
「……してる」
さつきが画面に視線を戻した。
「ロゴ、最終版にしようとしてたんだけど」
少し間があった。
「……手が止まってる」
佳乃は何も言わなかった。
「店、決まったら作りたいから。その前に進めるのも、なんか違う気がして」
さつきが画面を閉じた。完全にではなく、半分だけ。
「ま、いっか」
台所に戻りながら、佳乃はさっきの言葉を少し引きずった。
頼んでいないのに、続けていた。
そのさつきが、今日は止まっていた。
昼を過ぎて、佳乃は中庭に出た。
用事があったわけではなかった。
ただ、外に出たかった。
井戸の脇に立って、竹の蓋を見た。
指先で軽く触れた。
冷たかった。
地下水の冷たさが、今は少しだけ遠かった。
改装しなければ、この水を使う窯は来ない。
窯が来なければ、パンは売れない。
売れなければ、ここは店にならない。
わかっていた。
全部、最初からわかっていた。
それでも、ここまで来た。
竹の蓋から手を離した。
中庭の隅に、道具がまとめて置いてあった。
発酵かご、スケッパー、クープナイフ。
修業先を辞めたとき、持ち出してきたものだった。
使い込まれて、手に馴染んでいた。
しばらく、それを見ていた。
さつきが中庭に顔を出した。
「……パンチング、そろそろじゃない?」
「わかってます」
台所に戻った。
焼き上がりを、誰にも見せなかった。
おばちゃんは今日、来なかった。
さつきも、台所の入口に来なかった。
皿に乗せた。
見た。
切り分けた。
一口食べた。
手が、何かを覚えていた。
それだけは、確かだった。
皿を持ったまま、少し立っていた。
見せたい、と思った。
思ってから、少し驚いた。
義務でも習慣でもなかった。
ただ、この手触りを、誰かに渡したかった。
でも皿をテーブルに置いたまま、台所を片付けた。
さつきを呼ぶ声が、出なかった。
窓の外に、夕日が差し込んでいた。石畳が橙色に染まっていた。
さつきがMacBookを閉じた。
「ご飯、作ろうか」
「ええです」
「作るね」
佳乃は返事をしなかった。止めなかった。
さつきが冷蔵庫を開けた。あるものを確かめて、鍋を出した。
2人でテーブルを囲んだ。
何も解決していなかった。
並んで、食べた。
夜、さつきが先に布団に入った。
佳乃は天井を見た。
やめる、とは思っていなかった。
やれる、とも思えなかった。
どちらでもない場所に、今夜の自分はいた。
翌朝、佳乃は箒を持って表に出た。
まだ光が路地に届ききらない時間だった。
花びらは、もうなかった。
青葉の季節だった。
掃くものがなくても、手が箒を持っていた。
路地を掃いた。
両隣の分も、一尺ほど。
機械的な動きだった。
手が、体の前を進んでいった。
しばらくして、引き戸が開いた。
さつきが出てきた。
何も言わなかった。
隣に立った。
2人とも黙ったまま、路地を見ていた。
さつきが中に戻っていった。
お茶を淹れる音がした。
佳乃は箒を持ったまま、少し立っていた。
路地の向こうで、嵐電が走る音がした。
お茶を飲んだ。
さつきはいつものように喋らなかった。
今日は黙っていた。
湯呑みを両手で持って、窓の外を見ていた。
佳乃も何も言わなかった。
お茶が、ゆっくりと冷めた。
さつきが立ち上がった。二階に上がっていった。
キーボードを叩く音が、しばらくして聞こえてきた。
昨日、止まっていた音だった。
佳乃は湯呑みを持ったまま、台所の入口を見た。
道具が、棚の上に並んでいた。
発酵かご。スケッパー。にがりの小瓶。
昨日と同じ場所に、昨日と同じように、あった。
夕方になって、佳乃は玄関に立った。
用事があったわけではなかった。
ただ、玄関のあたりに来て、そのまま立っていた。
キャリーケースが、土間の隅にあった。
来た日から、ずっとそこにあった。
最初は玄関の脇に置いてあった。
いつからか、段ボールの隣に移っていた。
今は、棚から持ち出した布と、さつきが買ってきた調味料の袋の間に、挟まるように収まっていた。
キャリーケースの上に、さつきのトートバッグが乗っていた。
その隣に、MacBookのケースが立てかけてあった。
足元には、さつきのスニーカーが揃えて置いてあった。
荷物が、増えていた。
帰るための荷物なのに、ここにいるための形になっていた。
佳乃はしばらく、そこを見ていた。
断った。
それでも、まだいる。
あのとき、そう思った。今日も、同じ事実がそこにあった。
でも今日は、少し違って見えた。
この人は、帰れる。
なのに、荷物がここに沈んでいく。
自分では気づいていないかもしれなかった。
気づいていても、言わないのかもしれなかった。
どちらでも、同じだった。
二階から、キーボードの音がしていた。
夜、布団に入ってから、さつきがスマホを見ていた。
画面が、薄く光っていた。
佳乃には見えなかった。
でも、さつきが何かを見て、それから画面を伏せたのはわかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
さつきの寝息が、すぐに聞こえてきた。
早かった。いつものことだった。
佳乃は天井を見ていた。
足りない額は、変わっていなかった。
紙の上の数字は、動かなかった。
でも今日、見せたいと思った。
あのパンを。
声が出なかったけれど、思った。
それが昨日と、少しだけ違うことだった。
さつきの寝息が、規則正しく続いていた。
それだけが、今夜の佳乃には、少しだけ確かなものだった。




