第十五話「七時五分」
四時に起きて、粉を量る。井戸の水を汲んで、にがりを落とす。オートリーズ、捏ね、一次発酵。手順は、もう体に染み込んでいた。
迷う場所がなくなっていく分、頭の中に余白ができた。佳乃は、その余白で何を考えているわけでもなかった。ただ、手だけが先に動いた。
パンチング、ベンチタイム、成形。クープを入れて、霧を吹いて、オーブンへ。
七時。
引き戸を開けた。
七時五分。
毎日、同じ時間に男の人が来る。
あの会社員だった。
ハーフサイズのバゲットを指す。
無言で会計。
無言で出ていく。
それだけのやり取りが、日課のように繰り返されていた。
さつきが、時計をちらりと見た。
七時五分。
ぴったりだった。
それは、彼一人の話ではなかった。
七時、引き戸を開けるのと前後して、何人かの客が決まって入ってくる。早朝のランニング帰りらしい女性は、いつも同じカンパーニュを買って、汗を拭きながら帰っていった。新聞配達のバイクが、開店前から店の前で一度だけ停まり、すぐに走り去っていった。誰も、長くは店にいなかった。
それぞれの生活が、それぞれの時間に、この路地を通り過ぎていった。
会社員は、そのうちの一人にすぎなかった。
ただ、いちばん時間が正確だった。
夏の入口の朝は、毎日少しずつ蒸し暑くなっていった。引き戸を開けたときの空気の重さで、季節の進み方がわかった。
数日後、雨の朝だった。
雨の匂いが、土間まで届いていた。傘を打つ雨音が、路地の向こうから聞こえていた。店の中には、雨の匂いと、焼きたての小麦の匂いが、薄く混ざっていた。
傘の雫を払いながら、彼が入ってきた。肩が少し濡れていた。
時計を見ると、七時五分だった。
ハーフサイズのバゲット。
無言。
濡れた傘から、水滴が土間に小さく落ちた。それだけが、いつもと違う点だった。
さつきが、傘立てを指して何か言いかけたが、結局何も言わなかった。彼はもう、外に出ていた。
別の日。
七時八分になっても、来なかった。
さつきが、無意識に時計を見る回数が増えた。
「今日は来ないのかな」
「さあ」
七時十分。
引き戸が開いた。
彼が、いつもと同じ動作でハーフサイズのバゲットを指した。
何も言わなかった。
時間が違うことについても、何も言わなかった。
佳乃も何も言わなかった。
ただ、棚の隅に置いてあったバゲットを手早く半分に切った。
棚の隅に、いつもより早く切られたバゲットが、もう一本置いてあった。
「……今日、用意してたの?」
さつきが訊いた。
佳乃は答えなかった。
答えなかったが、否定もしなかった。
それからも、毎朝同じことが続いた。
おばちゃんが来て、世間話をしていく日もあった。学生らしい二人組が、笑いながらパンを選んでいく日もあった。会社員は、その間をすり抜けるように来て、すり抜けるように帰っていった。誰の記憶にも、特に残らない出入りだった。
それでも、佳乃の手だけは、いつも七時五分の少し前に、バゲットを一本切り分けていた。
ある朝、おばちゃんがふと言った。
「あの兄ちゃん、毎日来てはるな」
佳乃は何も言わなかった。
「えらい几帳面やね」
それだけ言って、おばちゃんは自分のパンを抱えて帰っていった。
気づけば、それが当たり前になっていた。
ある朝、さつきが思い切って話しかけた。
「今日も暑いですね」
男が、一瞬だけ顔を上げた。
「……そうですね」
それだけだった。
会計が終わると、すぐに出ていった。
さつきが、佳乃を振り返った。
「喋った」
「そうですね」
「すごい喋った」
「一言です」
「でも喋った」
佳乃は答えなかった。
でも、口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
休憩中、さつきが言った。
「あの人、何してる人なんだろうね」
佳乃は、生地を丸めていた。
返事をしなかった。
「聞いてる?」
「聞いてます」
「どう思う?」
「さあ」
さつきは少し笑って、それ以上は言わなかった。
湯呑みの底に、茶葉が一枚沈んでいた。さつきはそれを箸でつまんで、皿の端に置いた。
昼前、暖簾を出し直そうとして、佳乃が表に出た。
日差しが、もう真上に近かった。暖簾の影が、短くなっていた。蝉にはまだ早い季節だったが、空気はもう夏のものだった。
ベンチに、人影があった。
朝の会社員だった。
スーツの上着を脱いでいる。紙袋からバゲットを出して、急いで齧っていた。
味わっているようには見えなかった。
次の仕事までの、わずかな時間なのかもしれなかった。
佳乃は何も言わなかった。
その人も気づかなかった。
パンだけが、少しずつ短くなっていった。
汗で湿ったワイシャツの背中が、少し透けて見えた。
塀の上を、猫が一匹通り過ぎていった。彼はそれにも気づかなかった。
遠くで、子どもの声がした。学校帰りなのか、まだ早い時間なのか、佳乃にはわからなかった。
佳乃は暖簾を直して、中に戻った。
午後になっても、客はそれなりに来た。近所の主婦がベーコンエピを買いに来て、少しだけ世間話をしていった。学生らしい二人組が、笑いながらパンを選んでいった。
それから何日か経った、ある朝だった。
路地の緑が、もうすっかり濃くなっていた。あじさいが、隣の塀際で色づき始めていた。
その日も、佳乃はいつも通り四時に起きて、粉を量った。井戸の水は、相変わらず冷たかった。
これまでと同じ、七時五分。
彼が来た。
ハーフサイズのバゲットを指した。
いつもと同じように、佳乃が手早く包んだ。紙の擦れる音がした。
渡す瞬間、その人は一拍、止まった。
「助かってます」
それだけだった。
理由は言わなかった。
佳乃の手が、包みを渡したまま、少しだけ止まった。止まってから、動いた。
さつきは、何も言えなかった。
いつもなら何か言う人が、今日は黙っていた。
彼は会釈をして、出ていった。
引き戸が、静かに閉まった。
引き戸の外、路地を歩いていく。
嵐電の音が、遠くでした。
佳乃は台所に戻った。
粉を量った。
秤の数字を見て、少しだけ粉を足した。
外で、また電車が通った。
土間に戻ると、さつきがまだ立ったままだった。何かを考えているような顔をしていた。
翌朝も、彼は七時五分に来た。
ハーフサイズのバゲットを指した。
無言で会計。
無言で出ていった。
さつきは、その間ずっと会計袋を折っていた。
夕方、引き戸を閉めた。
さつきが売上げをノートに書き込んだ。佳乃は台所の片付けを始めた。道具を洗い、水気を拭き、元の場所に戻していく。
片付けをしながら、さつきが言った。
「結局、何してる人なんだろうね」
「さあ」
「気にならない?」
「なりますよ」
さつきが手を止めた。
「じゃあなんで聞かないの」
「パン買いに来てくれはるので」
それだけだった。
引き戸の外、夕方の光が路地に伸びていた。
路地の向こうで、また嵐電の音がした。




