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第十四話「ベーコンエピ」

開店して数日が経った朝、店に両親が来た。


七時を過ぎて、最初の客が何人か帰ったあとだった。土間には焼きたてのパンの匂いが残っていた。

棚にはバゲット、カンパーニュ、プチフランス、くるみパンが並んでいる。


引き戸が開いた。


父が先に入り、母がその後ろから顔を出した。


「おはようさん」


佳乃は一瞬だけ手を止めた。


「……おはようございます」


「開店祝い、遅なってごめんね。こっちのお店の休みが合わんで」


「大丈夫です」


父は何も言わずに店の中を見た。土間。棚。パンの並び。台所の方。看板。

そして、もう一度、棚。


さつきが、レジの横で背筋を伸ばした。


「あ、桐原さつきです。ここで手伝わせてもらってます」


父は短く頷いた。

母はにこやかに笑った。


「いつも佳乃がお世話になってます」


「いえ、こちらこそ」


「どういう意味ですか」


佳乃が言うと、さつきは少し笑った。


父は棚の前に立ったまま、パンの種類を見ていた。しばらく何も言わなかった。父は昔から、物を見るときに言葉を使わない人だった。


「これだけか」


やっと言った。


「そうです」


「増やさんのか」


佳乃は顔を上げた。

さつきが、少しだけ嬉しそうに父を見た。


「私はもう少し増やしてって言ってるんですけどね。色々入ったパンとか」


「余計なもん、入れたないです」


佳乃はすぐに言った。

少し間があった。


「家の豆腐屋もそうですよね」


父は何も言わなかった。

さつきは、言ってから少し余計だったかと思ったが、父は気にしていないようだった。

母が棚のパンを眺めながら、ゆっくりと言った。


「でも、お揚げさんとか、ひろうすとか、お豆腐から作るもんは売ってるけどね」


佳乃は返事をしなかった。

母は、少しだけ笑った。


「元のお豆腐が美味しいから、多少は、ね」


それだけだった。


父はバゲットを一本買った。母はくるみパンを一つ選んだ。会計を済ませると、二人は長居せずに帰っていった。

引き戸が閉まったあとも、母の言葉だけが土間のどこかに残っていた。


余計なもの。

余計ではないもの。


佳乃は棚を拭きながら、その違いを考えた。考えたところで、すぐに答えが出るものではなかった。


──元が美味しいから、多少は。


それは余計なものではないのだろうか。


お昼を少し過ぎた頃、その日のパンが全部なくなった。

引き戸に鍵をかけて閉める。

さつきはノートに今日の売れたパンの種類と数を書いた。

佳乃は台所で道具を洗い、水気を拭いていた。


「ねえ」


「はい」


「何か作ろうよ」


さつきが笑顔を向けた。

佳乃はスケッパーを拭く手を止めなかった。


「余計なもんです」


「余計じゃないやつ」


さつきは、あっさりと言った。


佳乃はスケッパーを置き、返事をしなかった。元の場所に戻した。

静かだった。換気の音だけが低く響いていた。


母の言葉を、もう一度頭の中で確かめた。

──元が美味しいから、多少は。


「……ベーコンエピやったら」


さつきが顔を上げた。


「それ、いい」


「フランスパンですし。昔、修業先でも作ってました」


「うん。いい」


「作ったことがあるだけで、売れるかどうかは別です」


「でも作るんでしょ」


佳乃は返事をしなかった。

否定もしなかった。


翌日、佳乃は近所のフレスコでベーコンを買ってきた。

いつも食べてきたベーコンだ。


生地を仕込む。

粉。井戸の水。にがりを数滴。

手は迷わなかった。


一次発酵を待つ間に、ベーコンを取り出した。冷たい脂が指に触れた。香りはある。悪くない。そう思った。


パンチング、ベンチタイム、パンチング。


成形した生地にベーコンを巻き込む。細長く伸ばし、ハサミを斜めに入れ、左右に倒す。麦の穂の形にする。


二次発酵。

さつきがお茶を淹れた。


膨らんだ生地をオーブンに入れると、しばらくして香りが立った。


いつもの小麦の匂いに、肉の匂いが混ざった。さつきが台所の入口まで来て、目を輝かせた。


「いい匂い」


「見んといてください」


「見てるだけ」


焼き上がりは、悪くなかった。


表面はきつね色に焼け、切り込みの端が少し焦げている。ベーコンの脂が生地に少し染みている。

ちゃんとベーコンエピだった。


皿に置く。

二人で向かい合って座った。

さつきが先に一口食べた。


少し黙った。


「……おいしい、けど」


佳乃も食べた。

噛んだ瞬間に、違うと思った。


パンは悪くない。いつもの生地だった。水も、塩も、焼きも、外していない。ベーコンも、普通に食べれば普通に美味しい。香りはある。塩気もある。


でも、一緒になると何かがずれた。噛み合わなかった。


味ではなかった。

もっと手前で、何かがぶつかっている気がした。


もう一口食べた。


「あきませんね」


さつきが頷いた。


「ホントだね。なんでだろ」


佳乃は、パンだけをちぎって食べた。いつも通りだった。


ベーコンだけを食べた。普通だった。


もう一度、一緒に食べた。


「……違います」


「何が?」


佳乃は答えられなかった。違う、としか言えなかった。理由は、まだわからなかった。


その夜、さつきが先に二階へ上がったあと、佳乃はしばらく台所に残っていた。


皿の上には、少しだけベーコンエピが残っていた。

食べる。

やはり違った。


わからないまま、佳乃は実家に電話した。


数回鳴って、母が出た。


「はい」


「お母さん」


「あら、どうしたん」


佳乃は少し黙った。


電話の向こうで、明日の準備をしている音がした。水の音。何かを置く音。豆腐屋のいつもの音だった。


「ベーコンエピ、作ったんです」


「へぇ」


「パンは、いつも通りなんです」


「うん」


「ベーコンも、普通に食べたら美味しいんです」


「うん」


「でも、一緒になると、なんか違うんです」


少し間があった。母はすぐには何も言わなかった。


「分かった」


それだけ言った。


「明日、顔出すわ」


「来んでいいです」


「行きます」


電話は切れた。佳乃は、しばらく受話器を見ていた。


翌日の閉店後、父と母が来た。


父は持ってきたクーラーバッグを開けた。中から、白い豆腐が出てきた。実家の豆腐だった。


見慣れた豆腐。子どもの頃から、何度も見てきた豆腐。


父は何も説明しなかった。包丁で豆腐を切り、土間のテーブルの皿にのせた。


それから、小さな瓶を取り出した。醤油をかける。


「ん」


父が皿を差し出した。

佳乃は箸を取った。一口食べる。さつきも食べた。


豆腐は実家の豆腐だった。

絹なのに箸で持ち上げられる。

それでいてやわらかく、なめらかで、大豆の甘みがある。

けれど、いつもの味に届かなかった。悪くはない。ただ、何かが足りなかった。


佳乃は少し首を傾げた。


「……違います」


さつきもそれ以上は言わなかった。


父は何も言わず、もう一本の瓶を開けた。別の醤油だった。


同じ豆腐に、それをかける。


「ん」


佳乃はもう一度食べた。


表情が変わったのが、自分でもわかった。


豆腐の甘みが立った。大豆の香りが、さっきより前に出た。醤油が勝っているわけではない。豆腐が負けているわけでもない。ただ、並んでいた。


「これです」


さつきも食べた。目が少し大きくなった。

父は何も言わなかった。

母が言った。


「最初のは、さっきフレスコで買うてきた醤油」


少し間。


「こっちは、中京なかぎょうの澤井さんの醤油。うちでずっと使うてるやつ」


それだけだった。


佳乃は、もう一度豆腐を食べた。

同じ豆腐だった。同じ豆腐なのに、違った。


醤油が変わるだけで、こんなに変わる。豆腐が強いから、合わせるものの差がそのまま出る。


それは、昨日のベーコンエピと同じ構造だった。


パンが強いから、ベーコンの差が出る。市販のベーコンが悪いわけではない。ただ、並ぶだけの力が、足りなかった。


そのことだけが、舌の上にはっきり残った。


両親が帰ったあと、さつきはスマホを見ていた。


テーブルに肘をつき、さっきから何かを検索している。


「ベーコン、作ってみようよ」


佳乃は顔を上げた。


「ベーコンを?」


「調べてみた。昔ながらのベーコンって、家でも作れるみたい。手順が並んでる。豚バラ、塩と砂糖、香辛料。漬け込む日数」


「……時間かかりますよ」


「待つのは得意」


「燻製も要ります」


「それも調べた」


さつきは、スマホを佳乃の方に向けた。


「あと、これ」


佳乃は画面を覗いた。


「……何ですか」


「浸透圧脱水シート」


「シート?」


「余分な水分だけ抜くらしい。乾燥が早くなるって」


佳乃はしばらく画面を読んだ。塩漬け。脱水。冷蔵庫。夏の京都で、肉を扱うには必要なことだった。


「……便利ですね」


「使う?」


「使います」


「即答」


佳乃は画面から目を離した。


「……道具ですね」


少し間。


「使うのは、人です」


さつきは何も言わなかった。少し笑っていた。


「そういうと思った」


翌日、豚バラブロックを買った。


塩と砂糖と香辛料をすり込む。肉の表面に手が触れる。パン生地とはまるで違う感触だった。冷たく、重く、脂が指に残った。


浸透圧脱水シートで包み、冷蔵庫に入れる。


さつきが横から覗く。


「もうベーコン?」


「違います」


「今は?」


「肉です」


「そのままだね」


「そのままです」


その日から、待つ時間が始まった。


豚肉は、冷蔵庫の中で静かに時間を重ねた。毎朝、佳乃は一度だけ冷蔵庫を開けた。


まだだった。


3日おきにシートを取り替える。


数日後、さつきが訊いた。


「もう?」


「まだです」


さらに数日後。


「そろそろ?」


「まだです」


肉の色が少しずつ変わっていった。表面の水分が抜け、手触りが変わった。冷蔵庫の中で、ゆっくりと別のものになっていく。


その間も、店はいつも通り開いた。


おばちゃんが来た。朝の会社員が来た。猫が塀の上を通った。


コムギトは、いつも通り開いて、いつも通り閉まった。


十日ほど経った。


塩抜きをして、表面の水気を丁寧に拭き、風を当てて、煙を当てた。


燻製の匂いが町家に満ちた。古い木の匂いと混ざって、嗅いだことのない匂いになった。さつきは何度も台所に来て、覗いた。


「今度こそベーコン?」


「まだです」


「これ、もうベーコン?」


「まだです」


「厳しい」


「じゃあ今は何?」


「途中です」


さつきは引き返した。また来た。また引き返した。


煙の色。脂の香り。肉の表面の艶。佳乃は淡々と、けれど丁寧な手つきで手を動かした。


ようやく完成した飴色のベーコンを、一切れだけ切った。市販のものとはまるで違っていた。厚みがあり、香りがあった。脂の色が違った。


そのまま食べた。さつきも食べた。


二人とも、何も言わなかった。言わなくても、わかった。それだけで食べると、塩気の奥に肉の甘みがあった。


「……これ、もうこのまま食べたい」


「エピにします」


「はい」


もう一度、生地を仕込んだ。

粉。井戸の水。にがり。


いつもの生地。そこに、自分たちで作ったベーコンを巻き込み、ハサミを入れる。


焼いた。


香りが、最初の試作と違った。パンの香りと肉の香りがぶつからなかった。


オーブンの中で、脂がゆっくり溶けて生地に少しずつ染みた。焼けた端が、香ばしかった。前とは違う匂いだった。パンの匂いと肉の匂いが、別々に立っているのではなく、同じところから出ているようだった。


焼き上がった。二人で食べた。

さつきは、一口かじって黙った。


「……これ」


佳乃はまず、パンだけを食べた。いつも通り。

次に、ベーコンだけを食べた。違った。

最後に、一緒に食べた。噛んだ。


「……並びました」


「並んだ?」


「パンと」


さつきが少し笑った。


「じゃあ売れるね」


「少しだけです」


「出た」


「手間がかかります」


「でも作るんでしょ」


佳乃は答えなかった。否定もしなかった。


翌朝、棚の端に、少しだけベーコンエピが並んだ。


いつものバゲットやカンパーニュより少し色が濃く、穂の形に切れ目が入って、少しだけ賑やかに見えた。


おばちゃんが来て、棚の端を見た。


「あら、今日は変わったんあるね」


「少しだけです」


「ほな、それ」


さつきが袋に入れながら、少し嬉そうにしていた。佳乃は何も言わなかった。


数日後、父と母が来た。


父は何も言わず、棚からベーコンエピを一本取った。会計を済ませる。


店先のベンチに座る。袋から出して食べる。

黙ったまま、最後まで食べた。


立ち上がる。そのまま店に戻る。

もう一本取る。


「これも」


佳乃は少しだけ手を止めた。


「……ありがとうございます」


父は短く頷いた。母が少し笑った。


「お父さん、それで十分やね」


二人は路地を歩いて帰っていっていった。


佳乃は引き戸の前に立って、その背中を、いつもより少しだけ長く見送った。


お昼前、ベーコンエピの籠は空になっていた。


さつきは何も言わなかった。佳乃も何も言わなかった。


夜、次の豚肉に塩を擦り込んだ。

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