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第十三話「また来る人」

四時に、目が覚めた。

隣の布団は、もう空だった。


階段を下りると、土間に明かりが点いていた。さつきが、店先のベンチを軒下から出して、位置を直していた。いつもの場所に。


「おはよう」


「……おはようございます」


佳乃は台所に入った。窓の外は、まだ暗かった。光はどこにも届いていなかった。古い木の匂いと、夜の空気の匂いが、まだ混ざったままだった。


粉を量る。井戸から水を汲む。冷たかった。きんとした、いつもの冷たさだった。にがりを数滴。


手が、迷わなかった。


捏ねながら、ふと工事中の音を思い出した。業者の声。道具の音。壁を叩く、低い振動。あれだけ町家の中に満ちていた音は、もうなかった。今日は、換気の音だけが町家に低く響いていた。


さつきが台所の入口に立って、それを見ていた。

何も言わなかった。何も触らなかった。


一次発酵に入れた。

オーブンの予熱を始めた。低い音がした。ファンが回る音だった。それだけだった。



仕込みの合間に、表に出た。

箒を持った。


夏の入口の路地だった。花びらはもうなかった。それでも、手が箒を持った。


さつきが出てきた。ちりとりを持った。


二人で黙って掃いた。掃くものは、ほとんどなかった。それでも一尺。両隣の分も、一尺ほど。


手が、体の前を進んでいった。


路地の向こうで、猫が一匹、塀の上を歩いていった。振り返らずに、角を曲がって消えた。


「あの猫、最近よく見るね」


「そうですか」


「名前ないのかな」


「さあ」


掃き終えて、土間に戻った。



お茶を飲んだ。

さつきが、看板を何度も見ていた。角度を直す。また見る。直す必要はないのに、また触る。


スマホを取り出して、SNSを確認した。また閉じた。


それから、ぽつりと言った。


「昨日って、何人来たっけ」


「数えてません」


「え」


「残ったパンの数で、だいたい」


さつきが少し黙った。


「来なければ来ないです」


「……聞いてないし」


「聞こえてました」


「冷たくない?」


「冷たいんやなくて」


少し間があった。


「昨日と同じことするだけです」


さつきは何も言わなかった。湯呑みを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。

お茶が、ちょうどいい温度になっていた。


湯呑みの底に、茶葉が一枚だけ沈んでいた。それを見ながら、佳乃は今日の焼成の順番を頭の中で並べ直した。バゲット。カンパーニュ。プチフランス。くるみパン。順番を決めると、手が先に動き出した。



七時。

引き戸を開けた。


朝の光が、路地に差し込んだ。初夏の光だった。まだ少し涼しかった。


しばらく、誰も来なかった。

さつきが外を見た。時計を見た。また外を見た。


佳乃は棚を拭いた。何度も同じところを拭いた。


路地の向こうで、自転車が通り過ぎる音がした。それだけだった。


風が少し動いて、看板の影が路地の上で揺れた。揺れて、また止まった。


「おはようさん」


同じ声だった。同じ自転車。同じ買い物袋。

おばちゃんだった。


「昨日のバゲット、うまかったわ」


佳乃が顔を上げた。


おばちゃんが、プチフランスを指した。


「今日はこれ」


「バゲットじゃないんですか」


さつきが訊いた。


「毎日同じやったら飽きるやろ」


それだけだった。

釣り銭を渡す佳乃の手が、ほんの一瞬、止まった。止まってから、動いた。


おばちゃんが、店先のベンチに少し座った。パンの袋を抱えたまま、しばらく風を見ていた。


それから、立ち上がって帰っていった。



おばちゃんと入れ替わるように、スーツの男が来た。

ハーフサイズのバゲットを指した。無言で会計。無言で出ていこうとした。


「昨日も来てくれてましたよね」


さつきが小声で言いかけた。


会社員が、扉に手をかけたまま、少しだけ振り返った。


「今日もです」


それだけ言って、出ていった。

路地の向こうで、嵐電の音がした。町が、もう動き出していた。



午前のあいだは、客が続いた。


二人連れの主婦がカンパーニュを買った。

宅配便の制服を着た男が、くるみパンを一つ持っていった。

学生らしい二人組は、しばらく棚を眺めてからバゲットを選んだ。


店先で足を止めて、そのまま帰っていく人もいた。


誰も長くは話さなかった。

パンを選んで、代金を払って、帰っていく。

それだけだった。


来ては、帰っていく。


佳乃はその間、ずっと台所と土間を行き来していた。朝のうちに仕込んでおいた生地を、焼き上がる時間をずらしながら順番に焼いた。焼き上がったものを棚に並べ、また台所に戻る。同じ動きを、何度も繰り返した。手を止める時間が、ほとんどなかった。


二度目のカンパーニュを出したとき、クラストを軽く指で弾いた。いい音がした。昨日より、少しだけ硬さの抜け方がよかった。誰にも言わなかった。自分だけがわかればいい違いだった。


さつきは会計と袋詰めを引き受けていた。最初の数回はもたついていたが、午前の終わりにはもう慣れた手つきになっていた。小銭を数える指の動きが、少しずつ速くなっていった。


昼を過ぎて、客足が落ち着いた。


午後になっても、客はぽつぽつとしか来なかった。土間に光が動いた。雲が流れているのかもしれなかった。さつきはMacBookを開いて、何か作業をしていたが、時々顔を上げて路地を見た。佳乃は台所で道具の手入れをした。明日の仕込みに備えて、整えておきたいものがあった。


午後の遅い時間、近所の人がふらりと立ち寄って、残っていたバタールを一つ買っていった。立ち話はしなかった。代金を置いて、会釈をして、帰っていった。それだけのやり取りが、今日は何度かあった。


さつきが、ふと顔を上げた。


「さっきの猫、また通った」


「そうですか」


「同じ顔して歩いてた」


佳乃は答えなかった。手元の道具を見ていた。


さつきが少し間を置いて、また言った。


「店の方、一回だけ見て、それからまた歩いていった」

窓の外で、夏の入口の風が、暖簾をゆっくりと揺らしていた。



夕方、引き戸を閉めた。

棚に、パンが少し残っていた。昨日より、少し多かった。

でも、プチフランスの籠だけは、空になっていた。


さつきが残ったパンを数えて、ノートに書き込んだ。鉛筆の音が、しばらく土間に響いた。佳乃は台所の片付けを始めた。道具を洗い、水気を拭き、元の場所に戻していく。台所の窓から、夕方の光が斜めに差し込んできた。


スケッパーを拭いた。

台所は静かだった。


「今日は昨日より客、少なかったね」


「そうですね」


少し間があった。


棚を見ながら、佳乃が言った。


「でも」


少し置いて、


「また来ました」


さつきが、少し笑った。


「うん」


少し間があった。


佳乃が、空になった籠に目をやった。


「明日は」


「うん」


「もう少し焼きます」


さつきは何も言わなかった。湯呑みを片付けながら、小さくうなずいた。


引き戸の外、夕方の光が静かに路地へ落ちていた。

コムギトは、今日も開いて、今日も閉まった。

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