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第十二話「コムギト」

工事が始まって最初の朝、佳乃は箒を持って表に出た。


路地はいつもと同じだった。

でも町家の中から、知らない音がした。

業者の声。道具の音。壁を叩く、低い振動。


掃いた。

店の前。

両隣の分も一尺ずつ。


さつきが出てきた。ちりとりを持っていた。


2人で黙って掃いた。


工事の音が、路地の向こうまで聞こえていた。



工事の期間中、台所は使えなかった。


佳乃は仕込みができなかった。

手が、何もしていない時間に慣れなかった。


さつきはMacBookを開いていた。


「SNS、始めようと思って」


「そうですか」


「インスタ。開店前から作っておいた方がいい。写真、撮らせてもらっていい?」


「何を」


「町家。路地。井戸。あと佳乃が仕込んでるとこ」


「仕込みは今できません」


「わかってる。工事終わったら」


さつきがレンズを向ける仕草をした。


「撮られるのは好きやないです」


「手元だけにする。顔は撮らない」


佳乃は少し間を置いた。


「……手元だけなら」


さつきがまたキーボードを叩いた。


「あと、値付けどうする。私、相場調べてみたんだけど」


ノートを開いた。近隣のパン屋の価格帯が、几帳面に書き込まれていた。


佳乃はそれを見た。


「バゲットは、この額で」


「それ、安すぎない?」


「このパンなら、この額です」


「でも、価値はもっとあると思う」


「最初は、これで」


さつきが少し考えた。


「……わかった。ただ、売れ行き見て、後で見直す」


「それは構いません」


「じゃあそれで。あと、営業日と時間、SNSに載せていい?」


「はい」


「定休日は」


「火曜と水曜」


「了解。開店時間は」


「朝7時。売り切れ次第終了」


「いいね、それ。売り切れたらまた告知する」


さつきがノートに書き込んだ。


2人とも、それ以上は何も言わなかった。


さつきがノートを閉じた。

閉じてから、少し間を置いた。


「なんか、実感わいてきた」


「そうですか」


「うん。数字で決まってくると、ほんとにやるんだなって」


佳乃はMacBookの画面を見た。


さつきが作ったSNSのアカウントがあった。

工事中の足場の写真。土埃の中の看板予定地。井戸の竹の蓋。

短い文章がいくつか並んでいた。


「これから始まります」

「もうすぐお見せできます」


まだ、肝心のパンの写真はなかった。


「……そうですね」


「楽しみだね」


「どうですかね」


「どうですかね、って」


さつきが少し笑った。


「でも、やるんでしょ」


「やります」


でも、何かが少しずつ、形になっていた。



オーブンを見に行ったのは、工事の合間の日だった。


業務用厨房機器の店だった。さつきがネットで調べて、一緒に行った。


デッキオーブンが、何台か並んでいた。


佳乃はそれぞれの前に立って、扉を開け、庫内を確かめた。スチーム機能。石床の厚さ。温度ムラの出方。担当者の説明を聞きながら、頭の中でパンを焼いていた。


さつきは黙ってついてきた。


質問しなかった。

意見も言わなかった。


ただ、隣にいた。


1台の前で、佳乃の足が止まった。


しばらく、扉を見ていた。


「これにします」


「どれくらい違うの、他と」


「スチームの入り方が、一番近い」


「何に近い?」


「自分が焼きたいパンに」


さつきが少し黙った。


「じゃあ、それで」


それだけだった。



工事が終わったのは、梅雨の明ける少し前だった。


業者が引き上げて、2人だけになった。


引き戸を開けた。


土間が、変わっていた。


床が、補修されていた。古い石畳の質感を残したまま、きちんと直っていた。

壁が、白くなっていた。

電気が、明るくなっていた。


でも、祖父の作った棚は残っていた。梁は、そのままだった。柱も、そのままだった。


佳乃は奥に進んだ。


台所の入口に立った。


台所が、変わっていた。


シンクが、大きくなっていた。

作業台が、広くなっていた。

換気が、静かに回っていた。


そして奥の壁に、デッキオーブンが据えられていた。


あの日、店で選んだものだった。


佳乃はしばらく、そこに立っていた。


動けなかった。

動く必要がなかった。


ただ、見ていた。


さつきが隣に来た。


「すごいね」


「そうですね」


「どう? 使いたくなった?」


佳乃は答えなかった。


答えなくても、わかるはずだった。


手が、もう動きたがっていた。



「佳乃」


さつきが表から声をかけた。


「来て」


外に出ると、さつきが路地の少し先に立っていた。


「ここから見て」


佳乃は隣に立った。


町家の正面が見えた。


看板が、掛かっていた。


コムギト。


小麦の穂のモチーフと、4文字。


最初のラフから何度も直してきた線が、ここで止まっていた。迷いがなかった。揺れていなかった。


佳乃はしばらく、それを見ていた。


これが、さつきの仕事だった。


頼んでいなかった。

でも、最初からここにあったものみたいだった。


「……ええですね」


「でしょ」


さつきが少し笑った。


2人とも、それ以上は何も言わなかった。


路地の向こうで、嵐電が走る音がした。

遠く、北野天満宮の方から鳩の声がした。


夏の夕方の光が、石畳を橙色に染めていた。


看板の影が、路地に細く伸びていた。



開店前日の夜、さつきが早めに布団に入った。


「明日、早起きする」


「しなくていいです」


「する」


「開店は7時です。仕込みは4時に始めます」


「4時に起きる」


「……好きにしてください」


さつきがスマホを見た。


SNSのアカウントを確かめているのか、明日の天気を見ているのか、よくわからなかった。


少しして、スマホを置いた。


「ねえ」


「はい」


「緊張する?」


佳乃は少し間を置いた。


「……します」


さつきが少し驚いた顔をした。


「佳乃がそういうこと言うの、初めて聞いた」


「そうですか」


「なんか、ちょっと安心した」


「なぜ」


「私だけじゃないから」


佳乃は答えなかった。


さつきがスマホをまた取り出した。


「開店の投稿、予約しとく」


「そうですか」


少し打って、画面を見せた。


「明日7時、開店します」


それだけの文章だった。短い動画も付いていた。看板と、暮れかけた路地。


「これでいい?」


佳乃はちらりと見た。


「……はい」


さつきが予約ボタンを押した。


「よし」


スマホを置いた。


さつきの寝息が、しばらくして聞こえてきた。


いつもより少し遅かったが、始まったら早かった。


佳乃は天井を見ていた。


梁の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。


明日、この町家は店になる。


祖父が残した柱と、梁と、棚。

さつきが見つけた井戸。

実家のにがり。

4年間の修業。

ここに来てからの日々。


それらが、明日の朝に向かっていた。


目を閉じた。



翌朝、まだ暗い時間に、佳乃は目を覚ました。


時計を見た。3時45分だった。


起き上がろうとして、気配に気づいた。


隣の布団が、すでに空だった。


一階から、音がした。


静かな音だった。

足音でも、話し声でもなかった。


何かを、そっと動かしている音だった。


階段を下りた。


土間に、明かりが点いていた。


さつきが、台所の入口に立っていた。


中を覗いていた。


佳乃に気づいて、振り返った。


「起こした?」


「いいえ」


「もう起きてよかったの?」


「4時に起きるつもりでした」


「じゃあよかった」


さつきが台所の入口から退いた。


佳乃は中に入った。


作業台の上に、道具が並んでいた。


スケッパー。クープナイフ。発酵かご。バヌトン。ボウル。計量器。にがりの小瓶。


さつきが並べていた。


昨日の夜、佳乃が出しておいたものだった。でも今朝、さつきがもう一度、きちんと並べ直していた。


使う順番に。


佳乃はしばらく、それを見ていた。


さつきは何も言わなかった。


佳乃も何も言わなかった。


手を洗った。


井戸から水を汲んできた。冷たかった。きんとした、いつもの冷たさだった。


今日も同じ水だった。

今日だけ特別な水ではなかった。

それでよかった。


粉を量った。水を加えた。にがりの小瓶を取り出して、数滴垂らした。


捏ねた。


手が、迷わなかった。


生地がまとまっていく。いつも通りの感触だった。いつも通りだから、よかった。


一次発酵に入れた。


次の生地の準備を終えて、手を洗う。


さつきがお茶を淹れていた。


2人で、台所の入口に並んで立った。


土間の奥に、デッキオーブンが見える。

まだ、火が入っていない。

扉が閉まったまま、静かにそこにあった。


お茶を飲んだ。


熱い。


ゆっくり飲んだ。



予熱を始める。


スイッチを入れた瞬間、低い音がする。

ファンが回る音だった。

静かで、安定した音。


オーブンが温まっていく気配が、台所の空気に滲んだ。

さつきが一歩、オーブンに近づいて、手をかざした。


「……あったかい」


「そうですね」


「すごいね」


「普通のオーブンです」


「でも」


さつきが手をかざしたまま、少し黙った。


「ここにある、ってすごいじゃん」


佳乃は答えなかった。


答えなかったが、同じことを思っていた。



一次発酵が終わった。

パンチング。分割。ベンチタイム。成形。

バヌトンに入れた。二次発酵。


その間に、準備していたバゲットの生地を捏ねた。


さつきは土間と台所を行き来した。

値札を確かめた。

引き戸の前に小さなベンチを出した。

看板の角度を少し直した。

SNSに、開店の投稿が出ているのを確かめた。


何も訊いてこなかった。

ただ動いていた。


カンパーニュをオーブンに入れた。


扉を閉めた瞬間、スチームが入った。


しばらくして、匂いが来た。

甘くない。素朴で、香ばしい。焦げの手前の、あの匂い。


今日のは、少し違った。


台所が変わったから、匂いの広がり方が違った。天井が、高くなっていた。換気が、静かに回っていた。


でも、中心にあるものは同じだった。

小麦と、水と、にがりと、時間。


それだけだった。



さつきが台所の入口に立った。

何も言わなかった。

ただ、匂いを嗅いでいた。


目を細めていた。


嬉しそうだった。

嬉しい、という言葉が足りないくらいの顔をしていた。


佳乃はオーブンのタイマーを見た。


あと、12分。



7時になった。

佳乃は引き戸を開けた。


朝の光が、路地に差し込んでいた。

初夏の光だった。まだ涼しくて、少し湿っていた。


「おはようございます」


おばちゃんが、もう来ていた。

自転車を押して、買い物袋を提げて、いつもと同じ顔で路地に立っていた。


「毎日来るって言うたやろ」


「覚えてます」


「ほな、バゲット一本ください」


佳乃は包んだ。

おばちゃんが代金を置いた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


おばちゃんが自転車を押して帰っていった。

路地が、静かになった。


さつきが隣に来た。

肩が、触れそうで触れなかった。


2人で路地を見ていた。

石畳が光っていた。

路地が細く走っていた。

遠くに嵐電の架線が見えた。


看板の影が、朝の光の中に伸びていた。


コムギト。


次の客が、路地の向こうから来るのが見えた。


さつきが小さく息を吸った。

佳乃は、隣の気配を感じた。


春に、勝手に入ってきた。

箒の掃き方を知らなかった。

一尺という言葉を知らなかった。

それでも、毎朝隣にいた。


道具を、使う順番に並べた。


佳乃は前を向いたまま、


「ありがとう」


と言った。


声に出したのは、初めてだった。


さつきは何も言わなかった。


少しして、また客が来た。

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