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第十一話「ここにいたいから」

朝、さつきが先に起きていた。


佳乃が目を覚ますと、隣の布団がすでに畳まれていた。

一階から、お茶を淹れる音がした。


起き上がって、階段を下りた。


さつきが急須を持っていた。振り返って、少し笑った。

何も言わなかった。


湯呑みを2つ、テーブルに置いた。

佳乃は椅子を引いて座った。

お茶が、静かに注がれた。



外に出ると、路地はまだ薄暗かった。

初夏の朝の、湿った空気が体に触れた。


箒を持った。

掃くものは少なかった。それでも手が動いた。


さつきが隣に出てきた。

箒を取り上げようとして、佳乃が先に動いていたので、ちりとりを持った。


2人で、黙って路地を掃いた。


一尺。


さつきの分も、今日はちょうど一尺だった。


言わなかった。

気づいていたが、言わなかった。



お茶を飲みながら、さつきがMacBookを開いた。


「見てほしいものがあって」


ディスプレイを向けた。

ロゴだった。

最初のラフから、何度も直してきたものだった。小麦の穂のモチーフと、「コムギト」の文字。線が、今日は違った。迷いがなかった。


佳乃はしばらく、それを見た。


「……これで、いいと思います」


さつきが少し息を吐いた。


「よかった」


「いつから」


「昨日の夜、急に決まった」


さつきがディスプレイを自分の方に戻した。


「看板、発注していい?」


少し間があった。


「……はい」


さつきがキーボードを叩いた。



午前中、佳乃は台所に入った。

粉を量った。井戸から汲んできた水を加えた。にがりの小瓶を取り出して、数滴垂らした。

手が、迷わなかった。


先週と同じ。その前の週と同じ。もう体が覚えていた。

捏ねながら、窓の外を見た。


中庭の井戸が見えた。竹の蓋が、いつものようにそこにあった。

ここまで来た。

やめなかった。やめられなかった、ではなかった。やめなかった。


一次発酵に入れた。



さつきが台所の入口に立った。


「佳乃」


「はい」


「少し、話していい」


振り返った。


さつきが入口の框に手をかけていた。改まった顔だった。

以前にも一度、こういう顔をしたことがあった。あのときと似ていた。でも、あのときとは少し違った。


静かだった。前よりも、静かだった。


「入ってください」


さつきが台所に入った。


佳乃は手を拭いて、向き直った。


「お金のこと」


さつきが言った。


「はい」


「私、出せる」


「……」


「貯金がある。東京で働いてた分、わりとちゃんと残ってて」


佳乃は黙っていた。


「パートナーとして、とかじゃなくて」


さつきが少し間を置いた。


「ただ、足りない分を出したい。それだけ」


「それだけ、とは」


「見返りとか、条件とか、そういうのじゃなくて」


「……」


「ここにいたいから。それだけ」


佳乃は、さつきを見ていた。


窓の外で、風が通った。初夏の、少し湿った風だった。


「……なんで」


声に出してから、少し驚いた。

訊くつもりじゃなかった。でも、出た。


さつきが少し考えた。


「なんでって言われると、むずかしいんだけど」


「うん」


「佳乃のパンが好き、っていうのはある」


「はい」


「ここが好き、っていうのもある」


「はい」


「でも、それだけじゃないんだよね」


さつきが窓の外を見た。


「なんか、ここにいると、自分がちゃんとしてる気がするんだよね」


「……」


「うまく言えないんだけど。東京にいたとき、自分がどこにいるのかよくわからなかった。ここに来てから、そういう感じがなくなった」


少し間があった。


「だから、いたい。それだけ」


佳乃は答えなかった。

さつきが続けた。


「無理に決めなくていい。考えてほしいだけ」


「わかりました」


「……うん」


さつきが台所を出た。

土間でMacBookを開く音がした。



佳乃は台所に残った。

生地が、一次発酵の途中だった。


ボウルに手をかざした。生地の温度が、手のひらに伝わってきた。

まだ、もう少しかかる。


窓から、中庭が見えた。

井戸。竹の蓋。春に2人で覗き込んだ、あの穴。


さつきが「これでパン焼いたら、どう思います?」と訊いた日のことを思い出した。

京都の水のパンでいいじゃないですか、と言った。


衝突した日のことも思い出した。

誰のための店なの、と言われて、答えが出なかった。


翌朝、くるみとチーズのクッペを焼いた。

さつきは「ありがとう」と言った。


一度、断った。

それでも、さつきはまだいた。


気づけば、荷物は増えていた。

帰るための荷物が、ここにいるための形になっていた。


ボウルの中の生地が、膨らんでいた。

手が動いた。パンチングをした。生地がまとまった。


ここにいたいから。それだけ、とさつきは言った。


条件ではなかった。

見返りでも、なかった。


ただ、いたい。

それだけが理由の人間が、ここにいる。


佳乃は手を止めた。

しばらく、生地を見ていた。


ここまで来た。


資金が足りなかった。

融資が通らなかった。

実家の援助も、限界だった。


それでも、やめなかった。


やめなかったのは、自分の意地だった。

でも今は——


ベンチタイムに入れた。



台所から出た。


さつきがMacBookの画面を見ていた。

気配に気づいて、顔を上げた。


佳乃は少し間を置いた。


「お願いします」


さつきが、動きを止めた。


一拍。


「……ほんとに?」


「はい」


「条件とか、ないの?」


「あります」


「言って」


「ロゴと看板は、もう決まりです。店のことは、基本的に私が決めます」


「わかった」


「パンのことに、口を挟まないでください」


「……それはちょっと——」


「挟まないでください」


「……わかった」


さつきが少し笑った。


「他は?」


佳乃は少し考えた。


「……今のところは、それだけです」


「じゃあ、よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


さつきが右手を出した。


佳乃は一拍置いて、握った。


さつきの手は、少し冷たかった。

自分の手も、同じくらい冷たかった。



台所に戻った。


カンパーニュの生地が、ベンチタイムを終えていた。

成形して、バヌトンに入れた。二次発酵。


待つ間に、次の粉を量った。


バゲットの仕込みを始めた。オートリーズ、捏ね。生地がまとまっていく。一次発酵に入れた。


生地が膨らんだのを確かめて、バヌトンを返した。クープを入れた。霧を吹いた。オーブンへ。


土間からキーボードの音がしていた。

さつきは何も訊いてこなかった。


カンパーニュが焼き上がった。


クラストを指で軽く叩いた。いい音がした。

皿に乗せて、脇に置いた。


オーブンが空いた。


バゲットの生地を出した。パンチング、成形、クープ。霧を吹いて、オーブンへ。


次の粉を量った。


くるみ。チーズ。


クッペとくるみパンの生地を同時に仕込んだ。捏ねながら、今日だけで何キロ粉を使っているか、頭の隅で数えた。


さつきが台所の入口に顔を出した。


「なんか、すごいことになってない?」


「仕込みです」


「何種類?」


「四種類」


「今日、全部焼くの?」


「焼きます」


さつきが少し黙った。それから引き返した。


バゲットが焼き上がった。


焼き上がりの匂いが、町家に満ちてきた。

甘くない。素朴で、香ばしい。

古い木と混ざって、ここでしか嗅いだことのない匂いになった。


くるみパンとチーズクッペを発酵に入れた。


待つ間、佳乃は台所の入口に立った。


さつきがMacBookを見ていた。

振り返らなかった。


「いい匂いですね」


「うん」


「全部焼けたら、食べますか」


「食べる」


くるみパンとチーズクッペが焼き上がったのは、夕方近かった。


皿を2つ出した。


カンパーニュを切った。バゲットを切った。くるみパンとチーズクッペを並べた。

2人でテーブルを囲んだ。

さつきが順番に食べた。


黙って、食べた。

すぐに「おいしい」と言わなかった。一種類ずつ、確かめるように食べた。


佳乃も食べた。


悪くなかった。

まだ、納得できないところはそれぞれにあった。

でも、確かに、ここに来るまでの自分には焼けなかったパンだった。


「……ねえ」


さつきが言った。


「はい」


「私がいなかったら、この水、使わなかったよね」


「そうですね」


「くるみパンも、作らなかった?」


「……そうかもしれないです」


「じゃあ、まあ」


さつきがカンパーニュをもう一口食べた。


「いてよかったじゃん、私」


佳乃は答えなかった。

答えなかったが、否定もしなかった。

路地の向こうで、嵐電が走る音がした。



夜、2人でテーブルを囲んだ。

さつきがノートを出した。数字を並べた。出せる額。改装費との差。オーブンを足した合計。


「これで足りる?」


「……足ります」


「じゃあ、来週業者に連絡する」


「はい」


「オーブンは」


「別で調べます」


「一緒に見に行ってもいい?」


「……どうぞ」


さつきが数字をノートに書き留めた。

ペンを置いて、ノートを閉じた。


佳乃はお茶を淹れた。祖父が好きだったお茶だった。

さつきの湯呑みにも、先に注いだ。


湯気が、ゆっくりと立ち上った。

2人とも、しばらく何も言わなかった。


テーブルの上に、ノートがあった。数字が並んでいた。

先週まで、あの数字は佳乃一人のものだった。


「ねえ」


「はい」


「コムギト、うまくいくと思う?」


「さあ」


「佳乃ってそういうとき、『さあ』って言うよね」


「他に言いようがないから」


「でもさ、やるんでしょ」


「やります」


さつきが湯呑みを両手で持った。


「じゃあいいか」


「そうですね」


お茶が、ちょうどいい温度になっていた。



夜が更けて、さつきが先に布団に入った。

寝息が聞こえてくるまで、いつもより少しだけ時間がかかった。


佳乃は天井を見ていた。

今日、受け取った。

断ったものを、受け取った。


意地だった、と自分でも思っていた。

でも、意地を手放したわけでもなかった。

自分でやれるところまでやった。やれなかった。

それでも、やめなかった。

やめないために、受け取った。


それは、負けではなかった。


隣で、さつきの寝息が聞こえた。


規則正しかった。

早かった。

いつものことだった。


この人は、帰れるのに帰らなかった。

帰らなかったから、ここまで来た。


佳乃は目を閉じた。


梁の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいた。


明日も、粉を量る。

水を加える。

にがりを、数滴垂らす。


それだけだった。

それだけで、よかった。

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