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第十六話「食べ方」

四時に起きて、いつも通り粉を量った。井戸の水を汲んで、にがりを落とす。オートリーズ、捏ね、一次発酵。手は、もう迷わなかった。


パンチング、ベンチタイム、成形。クープを入れて、オーブンへ。焼き上がりの匂いが、土間にゆっくり満ちていった。


仕込みの合間に、表に出た。

箒を持った。


夏の路地だった。両隣の分も、一尺ほど。さつきが出てきて、ちりとりを持った。二人で黙って掃いた。掃き終えて、土間に戻った。


開店して、まだ間もない時間だった。


見慣れない客が、カンパーニュを手に取って、迷っていた。観光客らしい身なりで、片手にガイドブックを持っていた。何度もカンパーニュを裏返したり、戻したりしていた。


「これ、どう食べるん?」


佳乃は、少し考えた。


オリーブオイル。

チーズ。

スープ。


頭の中に、答えはいくつも浮かんだ。

でも、どれが正しいのかはわからなかった。


「……お好きなように」


「ほな、小さいのからにしとこか」


客は、そう言って笑った。

佳乃は頷いた。


客が、小さいカンパーニュを一つ買って帰っていった。

引き戸が閉まる音がした。


佳乃は、しばらくその場に立っていた。


その日は、それからも何度か同じことが起きた。


別の客が、バゲットを手に取って言った。


「これって、そのまま食べるん?」


「……はい。それでも」


客は、少し考えてから、結局小さい方を選んで買っていった。


また別の客が、プチフランスを指して言った。


「朝ごはんに合います?」


「……合うと思います」


歯切れの悪い答えだった。客は買っていったが、佳乃の中には、何かが引っかかったまま残った。


くるみパンを前にした客には、


「これ、おやつ向きですか?」


と訊かれた。


「……おやつにも、なると思います」


歯切れは、やはり悪かった。客は少し笑って、それでも買っていった。


夕方、棚を片付けながら、佳乃はそのことをぼんやり考えていた。


さつきが、少し離れたところからその様子を見ていた。

何も言わなかった。



その夜、さつきが先に寝た後、佳乃は台所のテーブルで紙とペンを出した。


「カンパーニュ」と書いた。


その下に、


「合います」


と書いてみた。


違う気がした。

線を引いた。


「おすすめです」


と書いた。


もっと違う気がした。


紙を丸めた。


捏ねるときのような迷いのなさが、この紙の上にはなかった。



翌朝、四時。


いつも通り台所に入ろうとして、佳乃は土間で足を止めた。


棚の前に、小さなカードが何枚か立てかけてあった。


「カンパーニュ/オリーブオイルでも」

「バゲット/そのままでも、チーズでも」

「バタール/スープの日に」


簡単なイラストが添えられていた。小麦の穂のモチーフ、コムギトのロゴと同じ線で描かれた、オリーブの実やチーズの欠片。


佳乃は、しばらくそのカードを見ていた。

文字は少なかった。それでも、何を言いたいかは、すぐにわかった。


「オリーブオイルでも」


声に出して、確かめるように言ってみた。

言いやすかった。

紙の上で何時間も悩んでいたことが、嘘のようだった。


さつきが、二階から降りてきた。寝癖がついたままだった。


「あ、見つけた?」


「これ」


「POP。昨日の人、困ってたから」


「頼んでません」


「うん。でも作りたくて」


「勝手なことを」


「うん」


佳乃は、それ以上は言わなかった。


カードを取り上げて、棚に戻すことも、しなかった。


台所の隅で、昨夜丸めた紙が、まだそのままになっていた。さつきはそれに気づいたのか気づかなかったのか、何も言わなかった。



七時。

開店。


客が、カンパーニュの前で足を止めた。

POPを読んだ。


少し笑って、迷わずカンパーニュを手に取った。


「これ、ほんまにオリーブオイル合うん?」


別の客が、念のため確かめるように訊いた。


「合います」


今度は、迷いがなかった。


客は、納得した顔で会計を済ませた。


別の客が、バタールのPOPを指した。


「これ、ほんまにスープに合うん?」


さつきが答えようとした。

でも、佳乃が先に口を開いた。


「合います」


それだけだった。

言葉は少なかったが、今日は止まらなかった。


客は、笑って買っていった。


さつきは、会計をしながら、ちらちらと佳乃の方を見ていた。

佳乃は、気づかないふりをしていた。


七時五分。

いつもの会社員が来た。


ハーフサイズのバゲットを指した。

POPには、目もくれなかった。

無言で会計。

無言で出ていった。


さつきが、小さく笑った。


「あの人だけは変わらないね」


佳乃は答えなかった。



午後になっても、客の流れは続いた。


POPを見て、迷わずパンを選ぶ人。

イラストを指して、「これ、可愛いですね」と言う人。

佳乃は、その度に短く頷いた。


おばちゃんも来て、バタールのPOPを覗き込んだ。


「スープの日て、いつでもええんちゃう」


「……そうですね」


おばちゃんが、満足そうに帰っていった。


学生らしい二人組も、POPを指でなぞりながら、楽しそうに選んでいった。これまでより、迷う時間が短かった。


子ども連れの母親が、くるみパンの前で立ち止まった。POPは出ていなかったが、隣のバゲットのPOPをちらりと見て、「じゃあこっちも」と、くるみパンと一緒に買っていった。


棚のパンが、いつもより早く減っていった。


それから数日、同じことが続いた。


POPの前で立ち止まって、声に出して読んでいく客もいた。

連れの人間に、「これにしよう」と言う声が聞こえた。


気づけば、客が棚の前で立ち止まる時間は、少し短くなっていた。



夕方、閉店後。


棚を片付けながら、さつきが言った。


「外す?」


「別に」


「ふーん」


さつきは、それだけ言って、二階に上がっていった。


佳乃は、棚を拭いた。


少し曲がっていたPOPを見つけた。

無意識に、まっすぐ直した。


棚には、明日の分のカードも、すでに用意されていた。

さつきが、いつのまにか描き足していたものだった。


引き戸の外、夕方の光が路地に伸びていた。

路地の向こうで、嵐電の音がした。夏が、また少し深くなっていた。

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