2つの小さな咬み痕
イツキは、ツチハンミョウの標本をじっと見つめる。
思い出したくなかった過去の思い出が、濁流のように頭に流れてくる。
『動揺』
この言葉が今のイツキにはピッタリ当てはまっていた。
最悪な展開が頭の中をグルグルと渦巻いていた。
すると、ドンドンと扉を叩く音が診療所に響き渡る。
次の瞬間、診療所の扉が勢いよく開く。
「た、助けてくれ! こいつの手が急に腫れたと思ったら意識を失ったんだ!」
汗だくになった村の男が、ぐったりと意識を失った仲間を肩に担ぎながらやってきた。
グルグルと無意味なことを考えていた頭は、一瞬で人を助けるための思考へと切り替わる。
「すぐに診察台に乗せて!」
イツキは指示を出しながら、即座に動く。
担ぎ込まれた男は顔色が青白く、全身に真っ赤な蕁麻疹のような腫れが急速に広がっていた。
胸元に耳を近づけ、息遣いを確認する。
「ヒュー……ヒュー……」
気管支が狭まり、喘鳴が聞こえる。唇は酸素不足で青白く変色していた。
「……アナフィラキシーショックだ!」
イツキの緊迫した声が、診療所に響き渡る。
「まずは気道確保だ! ノア、エマ、顎を上げて! 足を少し高くして脳に血液を送るんだ!」
「は、はいっ!」
2人は素早く動き、患者の体勢を変える。
(アドレナリン注射があれば一発だが、ここにはない……! 交感神経を刺激して気管支を拡張させ、アレルギー反応を弱める薬草を使うか)
イツキは薬棚に跳びつき、『麻黄』と強力な抗炎症作用をもつ『甘草』の混合薬を用意した。
意識がないから誤嚥させないように気をつけながら投与しないといけない。
イツキは患者の口を慎重に開け、気道を潰さないよう喉の奥へと薬液を流し込む。
息をのんで一同は見守る。
数分後。
「ヒュー……ッ、ハァッ! カハッ……ゴホッゴホッ!」
患者の胸が大きく上下し、ヒューヒューと掠れた音が消え、勢いよく息が吐き出された。
酸素が体内に行き渡り、真っ青だった唇にうっすらと赤みが戻り始める。
「呼吸が戻った!」
エマは安心したように言う。
「脈拍も落ち着いてきましたね。ひとまず、危機は脱したようです」
ノアも胸を撫でおろす。
(ふぅ……なんとか繋ぎ止めた。だけどなぜ、アナフィラキシーショックが起こったんだ? 考えられる理由のひとつはスズメバチによるものだが……)
「ゴートさん、ダグは何をしていた時に倒れたんですか?」
イツキは担ぎ込んできた男に尋ねる。
「え、えっと……! 森の開墾作業中で、ダグのやつが伸びきった笹や草を刈り払っていたんだ。そしたら急に『うわっ!』と叫んで腕を押さえて……あっという間に顔が青ざめて倒れたんだよ」
ゴートは詳しく教えてくれた。
(笹や草の刈り払い……)
スズメバチなら大きな羽音で気づくはずだ。それにハチの刺し傷ならもっと局所的に大きく腫れ上がる。
イツキはダグの袖を捲りあげ、パンパンに腫れた腕を注意深く観察し始めた。
(ハチの毒針の痕じゃない……。これは……)
腫れ上がった皮膚の中心。そこには並んだ2つの微小な咬み痕があった。イツキはその痕跡を見逃さなかった。
(針で刺されたんじゃない。何かに『咬まれた』んだ。笹の葉……2つの咬み痕……まさか!)




