残された爪痕
インスリン投与から2日が経過した。
あの日死の淵を彷徨っていたリサちゃんの容態は奇跡的な回復を見せ、今では自分でスプーンを持ち、エマが作った特製のスープを美味しそうに平らげるまでになっていた。
「せんせい、ありがとー!」
元気いっぱいに手を振り、母親と笑い合いながら診療所を後にする。
その背中をイツキとノア、エマの3人は笑顔で見送る。
「……良かったですね、先生」
「ああ。だが、ここからが本当の勝負だ。インスリンの定期的な精製と食事の管理……2人にも手伝って貰うことになるよ」
「りょーかい!私、リサちゃんの献立ノート作ってくるね!」
エマが腕を捲り上げて意気込む。
ノアもまた、己の手元を静かに見つめ、小さく頷いた。あの夜、限界を超えて精製を成功させた経験は、彼の中で大きな自信へと変わったようだった。
診療所に、穏やかな日常が戻ってきていた。
そんな温かな空気を破るように、ドシドシと重い足跡が近づいてくる。
「おい!イツキ先生はいるか!」
ガラリとドアが開き、立っていたのは腕組みをした厳めしい顔つきの男。
村の肉屋の頑固オヤジ、バダンだった。
「バダンさん?どうしたんですか、そんな角を立てて」
「角も立つわ!お前ら一昨日、うちから豚のハラワタ(膵臓)を買い占めていったろ!おかげでその日のソーセージの仕込みが狂っちまったんだぞ!」
「あ……あの節はすいません、急を要していたもので……」
イツキは苦笑いをしながら頭を下げると、バダンはフンッと鼻を鳴らし、手に掲げていた大きな紙包みをドンと机に置いた。
「まぁ、いい。あの子……リサは、俺の妹の孫なんだ。……ハラワタで薬を作ってリサを救ってくれたんだろ。ありがとよ、先生」
口を尖らせながらも、恥ずかしそうに顔を背けるバダン。紙包みの中には、極上の豚ロース肉がどっさりと詰まっていた。
「これを、受け取ってくれ。礼だ」
「ありがとうございます!バダンさん!これからも豚のハラワタを定期的に買わせてください」
イツキは礼を言う。
イツキは貰った肉を片付けながら何気なく尋ねた。
「しかしバダンさん、よく僕たちが膵臓で薬を作っていると分かりましたね」
「ハッ、村じゃあもう噂になってるぜ。豚のゴミみたいな臓器から奇跡の薬を作った天才薬師だってな。……ただな、俺が驚いたのはそこじゃねぇんだ」
バダンは顎に手を当て、昔を懐かしむように目を細めた。
「豚のハラワタやら臓器を熱心に買い集めて、怪しげな液体に浸したり切り刻んだりする医者を……俺は前にも見たことがあったからな」
「……え?」
イツキの指先がピタリと止まる。
「昔、このグレン村にいた医者のことですか?」
ノアが不思議そうに首をかしげると、バダンは頷いた。
「ああ。数年前にこの村にいた前任の医者だよ。元々はパッとしない奴だったんだが……ある日、流行り病で1度死にかけた後、奇跡的に息を吹き返してな。それから急に人が変わったように医療の腕が上がったんだ」
(1度死にかけた後に……?)
イツキは胸の奥で小さなざわめきが生じるのに気がついた。
「ああ、気味の悪い奴でな臓器を切り刻むのもそうだが、森で触ると皮膚がただれる青黒い不気味な虫を大量に捕まえてた。そいつをオイルや酒に浸けて実験してたんだ」
(触ると皮膚がただれる青黒い不気味な虫……もしかして『ツチハンミョウ』か!?)
イツキは道具棚から標本箱を取り出し、1匹の虫を指さしながら聞く。
「バダンさんもしかして、その虫ってこんな見た目ですか?」
「ああ。そいつだ」
(ツチハンミョウ……カンタリジン毒の抽出……!?)
皮膚を激しく爛れさせ、経口摂取すれば腎臓や尿路を破壊して死に至らしめる猛毒物質、カンタリジン。
前世の薬学でも極めて慎重に扱われる劇薬だ。
「……その医者は、今どちらに?」
イツキの声が、無意識のうちに低くなる。
「さあな。数年前に『王都で一旗揚げる』とか言って、急に村を出て行っちまったよ。今頃どうしてるやら……まあ、腕は上がったが目が死んでて気味が悪い奴だったから、誰も引き止めなかったがね」
バダンは「じゃあな、肉美味しく食えよ!」と言い残し、満足そうに去っていった。
静まり返る診療所。
「イツキ……?どうしたの?顔色が悪いよ」
エマが心配そうに覗き込んでくる。
「……いや。なんでもないよ」
イツキは無理に笑顔を作って見せた。
(ツチハンミョウ……この毒は僕にとってのトラウマだ。僕の両親はこの毒で殺害された。世界最悪の薬師に……)
胸の奥で、ドクンと嫌な鼓動が跳ねる。
(まさか、そいつがこの世界に転移している……!?いや、そんなはずはない。この世界に転移者が来られるのは『100年』に1人のはず。僕と同じ世界の人間が、数年前にいるはずがない……)
イツキは自分に言い聞かせるように首を強く振った。
だが、胸の中に残った冷たい違和感だけは、消えてくれなかった。




