一生の始まり
糖尿病とは、血糖値を下げる唯一のホルモン、インスリンが上手く体の中で産生できず、血糖値が上がって下がらなくなる病気である。
これを根本的に治すには、インスリンを産生している『膵臓』にある『ランゲルハンス島』の『β細胞』を元の状態に戻さなければならない。
だが、現代医学をもってしても、それはほぼ不可能なことだった。
1度壊れてしまった細胞は、2度と元には戻らない。
だからこそ、前世の人間は外からインスリンを注射することで命を繋いできた。
だけど、この世界にはその注射液がない。
「このままじゃ、リサちゃんは数日と持たない……」
診察台から少し離れたところで、イツキはノアにだけ本当のタイムリミットを打ち明けた。
「インスリンを作ることは、できないんですか……?」
すがるようなノアの問いに、イツキは力なく首を振る。
「僕がいた世界では、高度な遺伝子組み換え技術を使って、大腸菌や酵母にインスリンを作らせていたんだ。だが、顕微鏡や高度なバイオテクノロジー、無菌の培養タンクなんてこの世界に無い。この製法は100%不可能なんだよ」
「……でも、インスリンって元々は生き物が作っているんですよね?動物から取れたりしないんですか?」
「……え?」
ノアの素朴な疑問に、イツキの思考が完全にフリーズした。
動物。家畜の臓器。
その単語が引き金となり、イツキの脳裏に、前世で学んだ医学の『歴史』が凄まじいスピードで蘇る。
(そうだ……!なんで忘れていたんだ!?遺伝子組み換えの技術が確立される前、一九二〇年代の地球では、どうやって世界初のインスリンを手に入れた!?)
答えは、屠殺された家畜だ。
「そうだ……!新鮮な家畜の膵臓から、直接抽出すればいいんだ……!」
弾かれたように顔を上げたイツキの目に、先程までの絶望は消え、鋭い光が宿っていた。
「豚や牛のインスリンは人間のものとアミノ酸の構造がそっくりなんだ。特に豚は、たった1個しか違わない。この世界の人間にも確実に効く!」
「でも先生、臓器をそのまま食べても胃で消化されちゃいますよね?」
「その通り。だから膵臓をすり潰して、酸やアルコールを使ってインスリンだけを『精製』しなきゃいけない。そこでノア、君の錬金術の腕の見せどころだ!」
イツキとノアは、エマにリサの看病を任せ、急いで村の肉屋へと足を運んだ。
そして、手に入る限りの新鮮な豚の膵臓を買い占めた。
イツキとノアは急いで戻り、すぐに作業へとうつる。
まず、イツキは買ってきた膵臓を全てすり潰した。
それを冷やした酸性アルコールに浸す。
酸性アルコールを入れることにより、膵臓自身がもっている強力な消化酵素がインスリンを破壊するのを防ぐためだ。
つまり、アルコールと酸で酵素の働きを完全にストップすることができる。
「ここからはノア、君の腕の見せどころだ。アルコールでインスリンは守れた。だけど、この液体には豚の余計なタンパク質がまだ、ドロドロに残っている。
これをそのままリサちゃんの体に投与したら、人間の免疫が異物と判断して大暴走を起こす。最悪、アナフィラキシーショックを起こし即死だ。
限界まで、インスリン『だけ』の純度に濾過してくれ。数ミクロンの不純物も残さないでくれ、君の最高の技術が必要だ」
ノアは、かつて水銀の毒で侵され、今もなお時折ピクピク震える己の右手を見つめた。
だが、その瞳に怯えは一切ない。
「任せてください。イツキさんに救ってもらった命、今度は人を救うために使うと決めたんですから」
ノアは道具棚から幾重にも細工されたお気に入りのガラス製蒸留器と特性の濾過布を取り出した。
深く息を吐き、机に向かう。
その瞬間、ノアの目つきがガラリと変わった。職人としての、あるいはかつて錬金術の深淵を覗こうとした1人の研究者としての凄まじい集中力が、診療所の空気を支配する。
驚くべきことに、作業に入った途端、あれほど不規則に揺れていたノアの指先が、まるで機械のようにピタッと静止した。
イツキがすり潰した膵臓の溶液をノアは極小の漏斗へと慎重に注いでいく。
液体の温度、濾過する速度、沈殿していく不純物の層の厚み
そのすべてを、ノアは五感と経験だけで完璧に見極めていた。
何度も、何度も、異なる素材の布や砂を通し、溶液を純化していく。
額から大粒の汗が流れ落ちるのも構わず、ノアはただ、目の前のフラスコの中に1滴ずつ落ちていく透明な液体だけを睨みつけていた。
全ての工程が終わりインスリンを抽出できた頃には、もう夜は明け朝になっていた。
「やっと、出来ました。イツキさんこれが完璧なインスリンです」
「ありがとう。少し休んでいていいぞ」
イツキは注射器で、その貴重なインスリンを吸い上げる。
「一気に入れるんですか?」
「いや、手作りの薬だ。どれくらい強く効くか分からない。インスリンは足りなくても死ぬが、多すぎても『低血糖』で脳が死ぬ。リサちゃんの呼吸と脈を見ながら1滴ずつ、慎重に効果を確かめるんだ」
イツキはハリをリサの皮膚へと刺し、自作のインスリン液をゆっくりと押し進めた。
……数十分後。
これ迄ハァハァと荒かったリサの呼吸が目に見えて穏やかになっていく。
「あ……暖かくなってきた!リサちゃんの体が!」
エマが驚きの声をあげる。
酸の海だった血液が、インスリンという『鍵』を得たことで、一気に細胞へエネルギーを届け始めたのだ。
リサの青白かった頬に、じわじわと健康的な赤みが差してくる。
「こ……これでリサは、リサは治ったんですか……?」
母親が涙を拭いながら、縋るように聞いてくる。
「お母さん、リサちゃんの病気は、これからが本当の闘いです。この注射は、一生続けなければなりません」
イツキは優しく、しかしどこまでも真剣な顔で言った。




