仮初めの覚醒
糖尿病という病において1番恐れられているのは、何年もかけて体を蝕む合併症だ。
前世の医学では、それを『しめじ』という言葉で表していた。
『し』は神経障害、『め』は網膜症、『じ』は腎症の3つ。
どれも高血糖の状態が何年も続いた結果として現れる、恐ろしい慢性的な症状だ。
だが、今目の前で診察台に横たわるリサが起こしているのは、そんな悠長なものではない。
インスリンが足りない状態で大量に砂糖を摂取したことで起こる。『急性代謝障害』。数時間あるいは数日で命を奪いにくる超急性的症状だ。
これほどのキツイ急性症状が出たと言うことは、答えはひとつしかない。
リサは生まれつき、あるいは何らかの原因で体内のインスリンが枯渇している。『1型糖尿病』だったということだ。
インスリンがない体に大量に糖が流れたことにより、体自身が自分を酸でとかし始めている。
「ノア、急いで大量の生理食塩水を用意してくれ!」
「わ、わかりました!」
ノアは、イツキの鬼気迫る声に少し驚きながらも、すぐに動き出す。
今リサの体は、極限の脱水状態にある。まずは、このドロドロになった酸の海(血液)を外へ洗い流さないとならない。
イツキは生理食塩水を点滴にセットし、リサの血管に注入し始めた。
だが、落ちていく点滴を睨みつけながらイツキは歯噛みする。
「クソ!これだけじゃ足りない。明らかに点滴のスピードじゃ間に合うわけが無い!」
普段は見せないほど焦った様子でイツキが鋭く毒づいた。
「ノア、以前作った細いゴム管を持ってきてくれ!煮沸消毒は済んでいるな!?」
「は、はい!ありますが...それをどうするんですか?」
「口から胃へ直接ゴム管を通す。血管からの点滴だけじゃ脱水のスピードに追いつかない。胃からも大量の水分を吸収させるんだ」
ノアは急いでゴム管を持ってきた。
イツキは1回大きく深呼吸をした。
さっきまで焦っていたとは思えないほど慎重にゆっくり、リサの口にゴム管をいれる。
意識のないリサの喉が、異物を拒むように小さく拒絶反応を見せた。
イツキはリサの頭を優しく支え、気管ではなく確実に食道へと滑り込ましていく。
「エマ、リサちゃんの体を少し横向きに支えていてくれ。胃液が逆流して窒息しないように」
「は、はいっ……!」
エマは怯えながらも、イツキの指示通りにリサの体をしっかり固定した。
深さにして約40cm。管が胃に到達したのを確認すると、イツキは用意させていた生理食塩水の容器を管に繋いだ。
重力を利用して、胃の中へとダイレクトに水分が流し込まれていく。
「これで、血管と胃、両方からの全速力の水分補給だ。頼む、間に合ってくれ……!」
処置を終え、イツキはリサの額に浮き出た汗を拭った。
診察台の脇では、リサの母親が涙を流しながら祈るようにその光景を見つめている。
「先生、リサは……私のリサは、助かるんですか……?」
「今は体の中の『酸』を必死に水で薄めているところです。これが上手く行けば、一度は意識を取り戻すはずです。ですが……」
イツキは言葉を濁し、ぐっと拳を握りしめた。
水を大量に入れれば、血液のpHは一時的にマシになり、脱水も治る。
だが、それはあくまでその場しのぎの応急処置に過ぎない。
リサの体内では、今も糖をエネルギーに変えるための『インスリン』が完全に枯渇しているのだ。
本来なら、インスリン注射を数単位打てば、ものの数時間でケトン体は消えて劇的に回復する。
だが、この世界にはインスリンなんて存在しない。
この処置で、1時的に目を覚ましたとしてもまた同じ昏睡状態に陥って、今度こそ死んでしまう。
イツキの脳裏に救えなかった、命の記憶が、黒い影となってよぎりはじめていた。
その時、リサの瞼がピクピクと動き、うっすらと目を覚ました。
「……おかあ...さん……のど、かわいた……」
「め……目を覚ました!」
エマは喜びの涙を流しながら言う。
母親もすぐさまリサの元へ駆け寄りその小さな体を抱きしめた。
だが、2人が涙を流しながら喜ぶ中イツキとその表情を見たノアの顔は、暗く曇ったままだった。
水で薄めただけの体は、今も静かに、確実に酸の海に戻ろうとしていた。
残された時間は、長くてもあと数日。
特効薬の存在しない異世界で、イツキはかつてないタイムレースの終わりを静かに予感していた。




