特効薬なき絶望
「最近、洗面用品のお陰で髪がサラサラの人が増えたね」
エマは自分の髪を触りながら、嬉しそうに言う。
「たしかにそうですね。村全体の衛生環境が良くなった気がします。何より、あの独特の体臭が消えたのがいいですね」
ノアは言う。
「それでね、知ってる?最近村に新しく出来たお店」
「また、新しいお店ができたのか」
イツキは少し呆れた声で言う。
「バームクーヘン屋さんなんだけど」
言い慣れないようにエマは言う。
「バームクーヘンか」
「そうそうでも、1番の人気商品はそれじゃなくて、紅茶やコーヒーに砂糖を入れて甘くした飲み物なの」
「子供でも飲みやすくていい商品ですね。今まで苦くて飲めなかったものが、お菓子感覚で味わえるわけですから」
ノアは感心するように言うと、エマも激しく頷く。
「そうなの!子どもに大人気で、みんな毎日水代わりにガブガブ飲んでるんだ」
「……毎日水代わりに」
イツキは眉をひそめる。
お菓子ならまだ食べる量に限界がある。だが、飲み物は飲もうと思えば大量に飲めてしまう。
「また、虫歯が流行らないといいが……」
「歯磨きも村で浸透したし、大丈夫でしょ!」
エマは言う。
「あ!そういえば、最近村で聞く噂なんですが」
ノアは言う。
「また、噂か」
イツキは眉をひそめる。
「ある少女が急激に痩せたらしいんです」
「思春期特有の無理なダイエットでもやったんじゃないか?」
「いえ、それが不気味なことに痩せていく前よりずっと狂ったようにご飯やお菓子を食べているらしくて……」
「ご飯を食べても痩せていく……」
イツキはなにかが強烈に引っかかった。
「それだけじゃない。異常なほど喉が渇くらしくて毎日バケツで何杯も水をがぶ飲みしているそうです」
「……」
「それなのに骨と皮のようにガリガリになっていく姿を見て、村人たちは『悪霊の呪いだ』と騒いでいるんですよ」
多食、多飲、そして急激な体重減少。
イツキの脳裏に最悪の病名が弾き出された。
インスリン異常、俗に言う糖尿病だ。
「……その子は今どこにいる?」
「さぁ、家で寝込んでいるそうですが」
「一応、すぐ診察した方がいいかもしれない。僕の勘違いならそれでいいんだが……」
それが杞憂であってくれと、イツキは祈るような気持ちで言った。
その直後だった。
バタン!!
診療所の重い扉が壊れそうな音を立てて跳ね上がった。
「先生!お願いこの子をリサを助けて!!」
悲鳴のような叫び声をあげて飛び込んできたのは、1人の母親だった。その腕にはぐったりと力なく垂れ下がる少女が抱えられている。
「どうした、何があった!?」
イツキは床を力強く蹴って立ち上がり、少女の元へ駆け寄った。
ノアとエマも息を飲んで後に続く。
「き...急に……急に倒れて、何度も何度も呼びかけたのに全然目を覚まさないの……っ!」
母親は涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃにしながら、少女を診察台へとよこたえた。
イツキは即座に少女の容態を確認する。
驚くほど体が軽い。ノアの言っていた通り、まるで悪霊に中身を食い尽くされたかのように腕も足も骨と皮のようにガリガリに痩せ細っていた。
そして何よりも異常なのは、その呼吸だ。
ハァ、ハァと深く、激しく、喘ぐように何度も荒い息を繰り返している。
クスマウル大呼吸……!酸欠症の典型的な症状だ。
イツキが少女の顔に耳を寄せたその時、少女の口元から、ツンとした独特な匂いがした。
腐ったリンゴのような、甘酸っぱい匂い。アセトンの匂いだ。
母親が診察台にすがりつきながらパニック状態で叫ぶ。
「やっぱり呪いなんだわ!ここ数日、この子のおしっこにアリが群がってたの!神様、リサを私のリサを連れて行かないで……!」
アリが群がる甘い尿。急激な体重減少。そして昏睡とアセトン臭。
最悪のピースが全て繋がった。
「エマ、ノアすぐに処置の準備を!」
イツキの声が、これまでになく鋭く診療所に響き渡る。
「イツキ、この病気は……?」
エマが怯えたように尋ねる。
「インスリン異常、その最悪の急性代謝障害だ。体の中が酸の海に脳がやられてる今すぐ手を打たないと、この子は数日中に確実に死ぬ……」
もう二度とイグナスの時のようなことにはなってはいけない。
だが、この世界には前世で命を繋ぐための特効薬だった【インスリン注射】は存在しない。かつてない圧倒的絶望を目の前にイツキの顔から完全に血の気が引いていた。




