変化
少し遅れて起きた紫蜘蛛と一緒に、朝食を食べに部屋を出る。
俺も紫蜘蛛も、昨夜の余韻にまだどこか浮かされていた。
『──暁人、おはよう』
「ああ、おはよう……」
お互いどこかぼんやりとした足取りで食堂に向かう。
支え合うように、しっかりと手は繋いでいた。
旅館の食堂はビュッフェ形式。先に席を確保して、各々好きなものを取ってくる。
紫蜘蛛は、お盆いっぱいに様々な料理を載せていた。
「……朝からよく食べるな」
『──昨日、頑張ったから。お腹空いてたみたい』
少し顔を赤くして、紫蜘蛛が手を合わせる。
昨夜のことを思い出して、俺も照れ隠しに食事に手をつけ始めた。
朝食に舌鼓を打ち、部屋に戻って荷物をまとめる。
一晩しか過ごしていないが、ここを離れるのがなんだか妙に名残惜しかった。
『──また来ましょう。二人で、何度でも』
「そうだな。次はもっとのんびりできるように、時間を作ろう」
旅館を後にして、昨晩話し合った通りにお互いの行きたい場所を巡っていく。
黒たまごを食べ、ロープウェイに乗り、遊覧船で湖を突っ切って水族館に向かう。
今昔堂のみんなへのお土産を買った頃には、既に日は傾いてきていた。
『──思ったよりたくさん遊べたわね』
「朝から動いた甲斐があったな。明日のこともあるし、そろそろ帰ろうか」
バスに乗り込み、麓の駅に向かう。
紫蜘蛛は疲れていたのか、珍しく席についた途端に眠ってしまった。
肩に頭を預けて小さな寝息を立てる姿が、とても愛おしい。
「まあ、なんだかんだ二日間動きっぱなしだったしな。こういう時もあるよな」
紫蜘蛛の頭を軽く撫でて、窓の外を眺める。
真っ暗な峠道と、それを照らす街灯。それと、窓に反射する自分の顔。
どこまでいっても、映るのはそれだけだった。
変わり映えしない景色に微睡んできたところに──
窓に、八重蜘蛛の姿が映った。
「──っ!?」
さっきまで自分が映っていた場所に、八重蜘蛛がいる。
まるで自分が八重蜘蛛になったかのように、見つめている。
瞬きをすると、そこにはまた自分の顔が映った。
「な、なんだ……?夢、じゃないよな」
肩に感じる紫蜘蛛の重みは、夢じゃないことの何よりの証明だった。
(八重蜘蛛と一つになったからか……?)
(そういえば、筆鬼は俺を“怪人”と呼んでたけど……)
(──もしかして俺自身が……怪異に近づいてる……?)
窓に映る自分を見ながら、考え続ける。さっきまでの眠気は吹き飛んだ。
もう一度八重蜘蛛の姿が映ることを期待して窓を凝視したが、結局同じような現象は起きなかった。
窓の外を見つめていると、今度は嫌な臭いを感じた。
車の排ガスのような、鼻や喉に不快感を催すような臭いに思わず顔を顰めて鼻を押さえる。
紫蜘蛛もたまらず嫌そうに目を開けた。
『──なに?この臭い……』
「バスの故障……じゃないよな。一体どこから──」
窓の外を見回していると、脳の奥に小さな電流のような感覚が走った。
紫蜘蛛と同時に、向かって右側の車線に振り向く。
ほぼ同時に、真っ赤な車が凄まじい速さでバスの隣を通り過ぎた。
「うわっ!?なんだあの車!」
思わず立ち上がり、運転席の方へと駆け込む。
ちょうど曲がり角に差し掛かるところで、バスは速度を落としていたが、赤い車は速度を保ったまま壁に突っ込んでいく。
「なっ!?死ぬ気かよ!」
『──いえ、死なないわ。だってあれ──』
『──怪異だもの』
紫蜘蛛の言葉の直後、赤い車は壁に乗り上げた。そのままの速度で壁を走っていく。
テールランプの残光が、赤いマフラーのようにたなびいた。
「マジかよ!?掟破りの地元走りなんてレベルじゃないぞ!」
突然目の前に現れた車に驚いた運転手がブレーキを踏む。
バスが大きく揺れ、立ち上がっていた俺と紫蜘蛛は一緒にフロントガラスへと吹き飛んだ。
「……!紫蜘蛛!」
『──暁人……!?』
紫蜘蛛の手を取り、一つになろうとする。
だが、紫蜘蛛は驚きの表情で俺を見つめるだけで、一つになれなかった。
咄嗟に彼女を抱き寄せて窓ガラスを突き破る。
『──紫蜘蛛、大丈夫か?』
『──暁人、その姿……』
紫蜘蛛の言葉を受けて、自分の手を見る。
俺の手は、真っ黒な鎧に包まれていた。
『これ……八重蜘蛛の鎧……』
『──あなた、暁人なのね?』
『ああ。俺だ。八重蜘蛛じゃない』
『いや、八重蜘蛛でもある……か』
さっきよりも感覚が鋭敏になっている。
微かだがさっきの排ガスのような臭いも嗅ぎ取れるし、赤い車が発しているエンジン音も聞こえる。随分遠くまで行ってしまったようだ。
『──暁人。私たちなら追いつける』
『ああ。行こう、紫蜘蛛!』
紫蜘蛛を抱き抱えたまま立ち上がると、彼女と一つになる。
黒い鎧の上から白い羽織をはためかせ、青い光を宿した瞳が紫に変わる。
『──飛ばしていく!』
脚に力を込めて、思い切り空へ跳ぶ。
糸を張ってスリングショットの要領で自分を飛ばし、空を駆ける。
あっという間に、さっきの赤い車が見えてきた。
『──見つけた!』
《──止まりなさい!》
両手から糸を放ち、車を捕らえる。
着地と同時に背中の蜘蛛脚を地面に食い込ませ、思い切り踏ん張る。
『──ぐう……!なんつー力だ……!』
《──負けてる……!このままじゃ──!》
蜘蛛脚が地面から引き剥がされ、身体が宙に浮く。
何度か身体を叩きつけられながらも、なんとか体勢を立て直して水上スキーのような形で引っ張られながらも食らいつく。
《──どうすれば止められる……?》
『──先回りして、無理やり止める!』
糸を離して、再び宙へ跳ぶ。
空を駆けて赤い車の先へ向かい、着地して待ち構える。
赤い車は、すぐに追いついてきた。
ヘッドライトが目の前に現れた人影に驚いたように光量を上げる。
『──止まれ!!』
ボンネットに向けて思い切り拳を振り抜く。
突然速度を殺された車は、後輪を振り上げて立ち上がった。
『──死んでないよな?流石に乱暴すぎたか?』
白煙を上げて止まった車の側面に回り、運転席のドアに手をかけるが、フレームが曲がってしまい開けられない。
仕方なく、力で無理やりドアを引き剥がした。
『──えっ?』
《──えっ?》
目の前の光景に、言葉を失う。
運転席に座っていたのは──
『な、なにをしてくれるんじゃ!ワシのお気に入りの“すぅぱぁかぁ”じゃったのに!』
老人のような口調の、幼女だった。




