山の主、紫蜘蛛
「あの夜、俺を死なせたのはなんでだ」
紫蜘蛛の目を見て、腑に落ちなかった部分を問う。
「今までずっと守ってくれていたのに、どうしてあの時はわざわざ怪異のいる場所に導いたんだ。俺なら死ぬかもしれなくても怪異に挑むって、分かってたはずだろ」
『──それは……』
紫蜘蛛の視線がわずかに泳ぐ。
そして、意を決したように再び口を開いた。
『──本当は、もっと早い段階で暁人から離れるつもりだった』
『──私の傷も癒えていたし、あなたも人並みに自分を想えるようになってきていたから』
『──でも。想定外の事が起きた』
紫蜘蛛が俺の胸元に手を伸ばすと、彼女から伸びた糸が俺の身体に絡みついてくる。
紫蜘蛛自身にも糸が絡みつき、お互い身動きが取れなくなる。
『──長い時を共有したせいか、私と暁人の魂が混ざりかけてたの。離れたくても、離れられなくなっていた』
『──そのまま放置して完全に混ざれば、私でも暁人でもない、新たな怪異に変貌してしまう』
『──だから、どうにかして分離させる必要があった』
『──そして……私に思いつく方法は、一つだけだった』
紫蜘蛛と俺に絡みついていた糸がバラバラに切れる。その瞬間、あの死の感覚がフラッシュバックして、思わず息を呑む。
『──暁人に瀕死の傷を負わせて、無理やり私を引き剥がしてから、暁人の傷を治す』
『──あそこに鎌鼬が現れたのは、僥倖だった。斬り傷は、私にとって一番治しやすい傷だったから』
『──そして、狙い通りにあなたは傷を負い、私は離れられた。私とあなたの傷を治して、暁人に憑いた当初の状態に戻れた』
『──暁人には、怖い思いをさせてしまった。ごめんなさい』
紫蜘蛛の言葉を、俺は静かに聞いていた。
あの夜の真実を聞いて、どこか胸のつっかえが取れた気分だった。
涙ぐむ紫蜘蛛を、静かに抱きしめる。
「確かに、あの時味わった死の感覚は一生モノのトラウマだ」
「でも、おかげで紫蜘蛛に会えた。大切な仲間ができた。みんなを守る力を得た。それは何よりも代え難い事実だ。だから──」
「ありがとうな、紫蜘蛛」
『──暁人……』
紫蜘蛛の瞳から流れる涙を、指で拭う。
彼女の唇が近付いてきた直後。
甘い花の香りがした。
「……この匂い……!」
『──古椿』
社を囲む木々に、一輪、また一輪と椿が咲く。
記憶よりも鮮やかな、鮮血のような赤色。
『──十年ぶりね、紫蜘蛛』
『今さら戻ってきたかと思えば、何をしているの?あのまま力尽きていればよかったのに』
地面が隆起し、一本の椿の木が生える。
枝葉が開くと、記憶よりも凶悪な姿に変化した古椿の女が幹に座っていた。
黒い瞳に赤い瞳孔。頭上には王冠のように伸びた黒い枝。
身体のあちこちには火傷の痕が見え、派手な着物も黒い焦げが目立っていた。
『──あなた、雰囲気変わったわね』
『誰のせいでこうなったと思っているの?あなたの焔でついた傷、いくら養分を吸っても治らないんだもの』
『まあおかげで、この山の主としての貫禄はついたのだけど』
ふう、と古椿が宙に向けて息を吐く。
一層強く甘い香りが漂うと、木々が突然騒ぎ出した。
野衾、山童、足高蜘蛛──次々と山に住まう怪異が顔を出す。
「こいつは……!」
『ん?あなた、どこかで見たような……?』
古椿が目を細め、こちらをじっと見つめてくる。
少し考えるように唸ると、目を大きく開いた。
『ああ。あなた、もしかしてあの時の子どもかしら?随分大きくなったのねぇ』
『それに、随分と生気が濃くなった。どんな心変わりがあったか知らないけど、喜ばしいわ……』
古椿が手を挙げると、周囲の怪異が殺気立つ。
『良い養分になりそうで──ね』
手を振り下ろすのと同時に、取り巻きの怪異が飛びかかってきた。
目は血走り、口からはよだれを垂らしている。
「っ!マジかよ!紫蜘蛛!」
紫蜘蛛の手を取り、迎撃態勢に入ろうとする。
だが、紫蜘蛛は俺の手を握ることはなく、そのまま俺の前に踏み出した。
「な……紫蜘蛛!一人じゃ危険だ!一緒に──」
『──言ったでしょ。こっちの方が、都合が良いって』
紫蜘蛛が飛びかかってくる怪異たちを振り払うように手を振る。軌道にわずかながら糸の軌跡が走った。
『──たった十年離れただけで、もう忘れたのかしら』
『──あなたたちの主が誰なのか』
怪異が糸に触れた途端、その場で縛られたように動きを止めた。
──いや。本当に縛られている。よく目を凝らさないと見えないほどの細い糸で、周囲を囲む数えきれないほどの怪異が、一瞬のうちに雁字搦めにされていた。
『──よく見なさい。あなた達が襲いかかった相手が、誰なのか』
紫蜘蛛から殺気のようなものが滲み出る。
その殺気は、無数の糸で編まれた巨大な蜘蛛の影となって現れた。
怪異たちから冷や汗が吹き出し、瞳は恐怖を訴え歪んでいた。
『──私が、紫蜘蛛が。この山の主よ』
『──思い出したのなら、散りなさい』
糸が解けると、怪異たちは蜘蛛の子を散らすように森の中へ消えていった。
(……紫蜘蛛、怖え……)
その異様な光景に、俺も思わず身がすくむ。
古椿も、わずかにたじろぎ冷や汗をかいていた。
『……あなた。本当にこの十年なにしてたの?まるで別人じゃない』
古椿が声を震わせながら、紫蜘蛛に問う。
紫蜘蛛は不敵な笑みを浮かべながら、古椿の元へ一歩ずつ近づいていった。
『──そうね。大切な人と過ごしてたわ。それだけよ』
『──私の大事な人を傷つけるなら、容赦はしない』
近づく度に、蜘蛛の影が濃くなっていく。
古椿の座る幹に触れるほど近づく頃には、まるで巨大な蜘蛛そのものがそこに立っているかのような圧力を感じた。
紫蜘蛛の指先が触れた直後、椿の木から花が落ちた。
一斉に一直線に地面に落ちる様は、まるで切り落とされた首のようだった。
『……っ!やめ……!』
『──どうする?この場で私の餌になるか、この山の養分になるか。選ばせてあげるわ』
椿の幹から細い白煙が上がる。
甘い花の香りが、焦げた匂いに変わる。
『分かった……!大人しくしてる!あなたがここの主よ!』
『──分かればいいわ』
紫蜘蛛が指を離すと、焦げた匂いが消えた。
古椿が荒い息を吐くように枝を震わせる。その度に紅色や黄色に色づいた葉が落ちていく。
『──さあ、あなたも早く散りなさい』
『……この十年で、あなたを超えたと思ってたのに。あなた、強くなりすぎよ』
『で?あなたはこれからどうするの。またここに住むつもり?』
古椿が幹ごと地面に沈み始める。
紫蜘蛛は変わらず笑みを浮かべていた。
『──いいえ。私は彼と共に生きる。ここには忘れ物を取りに来ただけよ』
『──でも、私はいつでもあなたたちを見ている。私の意に反することをしたら、すぐにまた帰ってくるわ』
『──さあ、言ってみなさい。私との約定を』
紫蜘蛛が古椿に手を差し出す。古椿はすぐに顔を上げ、紫蜘蛛の目を見た。
『……同士討ちはしない。人を襲わない。食べていいのは、迷った末に死にゆく者と、死した者だけ』
『──よくできました』
紫蜘蛛の言葉を聞くと、古椿は何も言わず地面に消えた。隆起していた土が、何事もなかったかのように平坦になり、社の周りには椿の花と黄色や紅に変色した葉だけが残った。
『──戻りましょうか、暁人』
「あ、ああ……」
紫蜘蛛の手を握り、社を後にする。
心なしか、紫蜘蛛の足取りは軽かった。
山道を下る途中、紫蜘蛛に察されない程度に周囲を見る。山童や野衾が、怯えた目で俺たちを見ていた。
(……みんなのトラウマってやつか……)
さすがに、この言葉は胸にしまった。
山を下り旅館に着くまで、怪異に襲われることはなかった。
俺の隣を歩く紫蜘蛛は、どこか嬉しそうに笑っていた。




