“生きる”
紫蜘蛛が少年の額に手を乗せ、小さく撫でる。
青白い顔の少年が、目だけを紫蜘蛛に向けた。
『……お姉さんは、どうして……』
『僕を、助けたの……?』
少年の言葉に、紫蜘蛛は視線を外した。
『──別に、あなたを助けたわけじゃない』
『──ああしないと、私も死んでた。それだけよ』
『──生きるために、命を懸ける。それが、“生きる”ってことよ』
紫蜘蛛の口にした“生きる”という言葉は、俺の身にとても重く響いた。
「生きるために、命を懸ける……」
思えば、今まで怪異と戦ってきたのも、あくまで誰かの為だった。
怪異から人を助ける為。ただそれだけだった。
自分のことは二の次だった。
『──あなたも、自分のために生きてみなさい』
『自分の、ため……?』
少年の目が小さく泳ぐ。少しの間、静寂に包まれると、少年が再び声を震わせた。
『……やっぱり、分かんないよ。どうしたらいいの……?』
『──そうね。まずは、その答えを探すために生きてみましょう』
紫蜘蛛の身体が少しずつ白に染まっていく。
指先から徐々に糸状にほつれ、少年の身体に巻き付いては染み込むように沈んでいく。
『──あなたの身体、少し借りるわ』
『え……?』
少年の目に困惑の色が映る。
『──いずれにしろ、このままじゃ私も死ぬわ。だから、あなたの生気を少しだけ分けてほしい』
『──あなたが生きてくれれば、私も生きられる』
『──あなた自身の答えが出るまでは、私のために、生きてくれないかしら?』
『僕が生きれば、お姉さんも生きられる……』
『……分かった。お姉さんが生きるのに必要なら、僕も生きるよ』
紫蜘蛛が僅かに微笑むと、少年も答えるように笑った。
お互いの笑顔には、恐怖も打算もなかった。
まるで、今の俺と紫蜘蛛のように。
『──それと、この出来事は、忘れさせるわ』
『──怪異に出くわした記憶なんて、忘れた方がいい』
『──あとは、あなた次第よ』
紫蜘蛛の身体が、全て少年の中に消えた。
少年は目を閉じたまま、ぎこちない足取りで歩き始める。
「紫蜘蛛、まさか人目につきやすい場所まで連れて行ったのか」
よく見ると、少年の傷も破れた服も治り始めていた。
この調子なら、山道に戻る頃には全て元通りだろう。
少年の後をついていくと、思った通り、山道に出たところで少年の足が止まった。
ゆっくりと倒れると、微かに感じられた紫蜘蛛の気配も完全に消えた。恐らく、今度こそ力尽きて少年の中で眠りについたのだろう。
しばらくすると、何人かの大人が山道を登ってきた。少年を見つけると、慌てて駆け寄り無事を確認してから、無線で何かを伝え始めた。
すぐに少年は大人たちに運ばれて、救急車で病院に搬送された。
俺は麓までついていき、最後まで見送った。
「……そうか」
「この時から、紫蜘蛛に助けられてたんだな、俺」
周囲が暗闇に変わると、一枚、また一枚と写真のように思い出が浮かび上がってきた。
小さな幸せや、大きな幸せ。辛かったり悔しかったりした時から、相変わらず誰かのために身体を張った場面まで。
全て覚えているが、全てが違って見えた。
「紫蜘蛛……」
全ての思い出に、紫蜘蛛が写っていた。
嬉しい時も悲しい時も常に紫蜘蛛はそばにいた。
無理をして怪我しそうになった時や、厄介ごとに巻き込まれそうな時は、紫蜘蛛の糸が俺を引っ張って助けてくれていた。
「度々感じてたあの引力は、これだったのか」
思い出がパラパラとめくられていくと、最後の一枚が現れた。
俺と紫蜘蛛が再び出会うきっかけになった、あの夜の写真だ。
「ここは……」
コンビニの帰り道、紫蜘蛛の糸に引かれて路地に向かう自分が、最後の一枚だった。
『──やっと全部思い出したか』
どこからか声が聞こえた。
ある意味、最も聞きなれた声だった。
「八重蜘蛛……!」
振り返ると、八重蜘蛛がそこにいた。
普段は真っ赤に染まっている瞳が、今は穏やかな青色を湛えている。
「なんでここにいるんだ」
『いるに決まってんだろ。俺はお前だって何度言えばいい?』
『それで、どうだ?答えは見つけられたか?』
八重蜘蛛がわざとらしく鎧を鳴らしながら近づいてくる。
厳しい音とは裏腹に、両腕も背中の蜘蛛脚も脱力したままだった。
「……分からない。でも、今の俺に出せる答えはこれだ」
『ほう?言ってみろよ』
八重蜘蛛が挑発的に首を軽く振る。
俺は八重蜘蛛の目をしっかり見据えた。
「今の俺には、紫蜘蛛がいて、仲間がいる。俺が死んだら悲しむ人がいる」
「いや、昔からそうだった。ばあちゃんも、父さんと母さんだって俺が死んだら悲しむ」
「俺も同じだ。仲間や家族が死んだら、悲しい」
「みんなが悲しむから、俺は生きる」
「でも、それだけじゃない。俺自身、まだ生きたいんだ」
「だから、俺もみんなも生きていけるように、努力するよ」
俺の答えを聞いて、八重蜘蛛は満足そうに鼻を鳴らした。
『ハッ。まあ、及第点ってところか?自分も勘定に入れられるようになっただけ、マシにはなったか』
八重蜘蛛がゆっくりと片手を差し出す。
鏡合わせのように、俺も手を出して八重蜘蛛の手と合わせる。
何故だか、妙に懐かしい感覚がした。
『ようやく、元の形に戻れる』
『もう俺の声は聞こえなくなるだろうが、寂しがるなよ?』
「……むしろ聞こえなくなって清々するよ」
俺の返事を聞いて、八重蜘蛛は短く息を吐くように笑った。
『そら、そろそろ起きろ。まだ紫蜘蛛に聞きてえことがあんだろ』
「ああ、そうだな。それさえ聞けば、全部繋がる」
八重蜘蛛の身体がバラバラになり、俺の身体を覆っていく。
全身に鎧を纏うと、体の内側に沈むように消えて行った。
「……そうだ。あと一つ、解決しないとな」
静かに目を閉じると、何かに引き上げられるように一気に意識が上へ引っ張られていった。
『──おはよう、暁人』
「……おはよう、紫蜘蛛」
目を開けると、紫蜘蛛の顔が目の前に現れた。
後頭部に柔らかい感覚を覚える。膝枕されていたようだ。
『──どう?思い出した?』
「ああ、全部思い出したよ」
「俺は、ずっと紫蜘蛛に助けられてたんだな」
「……でも、一つだけ、分からないことがある」
ゆっくりと起き上がり、紫蜘蛛の目を見る。
紫蜘蛛も、俺が何を聞きたいのか察しているようだった。
「──あの夜、なんで俺を死なせた?」




