古椿の怪
『え……僕の、肉……?』
紫蜘蛛の言葉に、少年が目を丸くする。
俺も思わず息を呑んだ。
「紫蜘蛛……それは、俺を食うってこと……だよな」
『……分かった。それでお姉さんが助かるなら、食べていいよ』
少年は、俺が結論を出すより早く決断した。
「っ!?おい待て!それが何を意味してるのか──」
『──あなた、自分が何を言ってるのか、分かってるの?』
紫蜘蛛が呆れと驚きを含んだ目で少年を見た。
当然だ、俺だって多分同じ顔をしている。
『──私、あなたを食べようとしてるのよ』
『──生きるために、あなたを殺そうとしてるのよ』
『うん。だから、食べても良いよ。僕の命でお姉さんが助かるなら』
紫蜘蛛がハッキリと『あなたを殺す』と宣言しても、少年の答えは変わらなかった。紫蜘蛛の目に困惑の色が浮かんだ。
『──どうして、そんなに命に無頓着なの』
『僕、自分のことが好きじゃないんだ。弱くて泣き虫で、一人じゃ何もできないから』
『どうして僕はここにいるんだろうって、よく考えるんだ』
『だから、僕は僕の命を人のために使いたい。誰かを助けたり役に立てると、僕はここにいていいんだって思えるから』
少年の言葉に、思わず耳を傾けてしまう。
今でこそ人並みの自己肯定感はあるつもりだ。それでも──この頃の俺は、こんなにも自分を見失ってたのか。
『──なに、それ』
『──そんなことで、自分の命を、差し出せるの?』
紫蜘蛛が少年の頭から手を離す。
ゆっくりと少年から離れ、社の壁に身体をもたれかけた。
『お、お姉さん、大丈夫なの……?』
『──気が変わったわ』
『──今のあなたは、きっと美味しくない。だから、いらない』
紫蜘蛛がふいとそっぽを向く。
少年は困ったようにその場に座っていた。
「紫蜘蛛……」
変わらず苦しそうに浅い呼吸を繰り返す紫蜘蛛に、無駄だと分かっていても手を差し伸べる。
案の定、俺の手は紫蜘蛛をすり抜けてしまったが、彼女は僅かにこちらを見た気がした。
『──匂うわね』
『え……?』
「紫蜘蛛?」
紫蜘蛛の目が鋭くなった。確かに、先ほどよりも椿の花の香りが強くなっている。
『──逃げて』
『え?なんで……』
『──いいから、逃げて──!』
紫蜘蛛の警告の直後。
地面から木の枝が飛び出してきた。
『うわっ──!』
『──っ!』
枝は紫蜘蛛を捕らえ、地面から引き剥がした。
もう一本の枝も少年を捕らえようと伸びてきたが、紫蜘蛛の糸が動きを止めた。
『あら、あら。これは思わぬ収穫』
『まさか人間、それも子供が来るなんて』
地面から椿の木が生えてくる。
社と同じくらいの背まで伸び、艶やかな紅い花と鮮やかな翠の葉が枝を彩る。翼のように枝葉が開いて、中心から派手な着物と椿の髪飾りを身につけた女性が現れた。
『あら?まだ息があったのね、紫蜘蛛。ちょうど良いわ。その子と一緒に食べてあげるわ』
『──なにしてるの。早く、逃げなさい……!』
紫蜘蛛が少年に向けて声を絞り出す。
こうしている間にも、彼女を捕らえた枝は少しずつ締め上げられていく。
紫蜘蛛と枝の間から血が滲み、紫蜘蛛の口からも血が溢れてくる。
『他人の心配してる場合?ただでさえ、さっき私に負けたばかりでしょう?』
「っ!やめろ!」
咄嗟に椿の怪異に向けて拳を振るう。
やはり、拳はすり抜けた。
それと、普段なら八重蜘蛛の鎧を出せるはずなのに、今はそれすらできない。
「くそっ!記憶の中じゃなけりゃすぐにでも……!」
『や、やめろ!』
少年が木の棒を手に取り、椿の枝に向けて振り回す。
枝葉を揺らすだけで何も起きない様を、椿の女は呆れたような目で眺めていた。
『……あら、あら』
『可愛いところあるじゃない。まあ、無意味なんだけど』
『うわっ……!』
椿の枝が難なく少年を絡め取って地面から引き剥がす。
ついでと言わんばかりに手に持っていた木の棒も奪い取り、締め上げて粉々に砕いてしまった。
『あなたくらいの子に言っても分からないかもしれないけど、勇気と蛮勇って違うのよ?』
『あなたのそれは蛮勇。いえ、自殺って言った方が良いかしら?』
『かっ、は、ぁ……!』
椿の枝が音を立てて少年を締め上げていく。
少年の身体から血の気が消えていき、呼吸も浅くなっていく。
『あら……?あなた、妙に生気が薄いわね……?』
『もしかして、あんまり生きる気力とかなかったりするのかしら?』
椿の女が小さく首を傾げる。
少年は既にぐったりとしていて、口がきける状態ではなかった。
『まあ良いわ。生気であることに違いはないし』
『この“古椿”の養分になれること、光栄に思いなさい』
枝がさらに少年を締め上げる。
枝葉の擦れる音から、骨が軋む音へと変わっていく。
『あ……ぁ……』
『それじゃあそろそろ──』
『──紫焔』
紫蜘蛛の身体から、紫色の炎が弾ける。
彼女を絡め取っていた枝が一瞬で炭も残さず焼け落ち、紫蜘蛛の身体は解放された。
『なっ……紫蜘蛛、あなた、まだそんな力が……!』
『──ええ。今は、命を燃やしているから──!』
紫蜘蛛が紫焔を纏ったまま、古椿に触れる。
紫の火の手が、一気に古椿の身体を上っていく。
『くっ……あぁぁ──!あなた、本気!?この子供まで巻き込むつもり──!?』
『──大丈夫、絶対、燃やさないから』
紫焔は綺麗に少年を避けて、古椿の全身を包んだ。
枝葉が焼き尽くされ、少年の身体が古椿から離れる。
『──っ!』
地面に落ちる直前、紫蜘蛛の放った糸が少年を捕らえて彼女の元へと引き寄せる。
少年の息はまだあったが、今にも消えそうなほど小さなものだった。
『──まだ、生きてる』
『くっ……火が消えない!このままじゃ……!』
『覚えてなさい!今度こそ、あなたを食べて私がここの頭になるんだから──!』
古椿が枝と根を使って地面を抉り潜っていく。
土埃が巻き上がり、落ち着いた頃には古椿はいなくなっていた。
『──はあ。なんとか、なったかしら……』
『──起きなさい。まだ、死んじゃだめよ』
紫蜘蛛が腕の中で気絶している少年を軽く揺らす。
少年は辛そうに目を開けた。
『……おねえ、さん……どう、して……?』
『──あなた、もう少しだけ生きてみなさい』
『──怪異にすら憐れまれるような生は、哀しいものと知るべきよ』
紫蜘蛛の瞳は、記憶と同じ憐憫を含んでいた。




