迷いの森の椿
紫蜘蛛が社の階段に腰をかけ、こちらに手招きをする。
その姿は、まるで獲物を誘き寄せる蜘蛛のようにも見えた。
『──来て。暁人』
その姿と手つきに、ほんの少し躊躇いが生まれた。
まるで、初めて紫蜘蛛の顔を見た時のような、近づきたい関心と近づいてはいけないという恐怖が混ざり合った、不思議な感覚。
そして、関心に負けて彼女に近づくところまであの時と一緒だった。
紫蜘蛛の隣に腰かけ、彼女を見る。
ボヤけていた記憶の輪郭が、少しずつ取り戻されていく。
その目は憐憫を含んでいた。
「……あと少しで、思い出せそうなんだが……」
うんうんと唸っていると、紫蜘蛛が俺の手を握った。
「紫蜘蛛……?」
『──暁人。先に謝っておくわ』
『──これからあなたに、怖い思いをさせてしまうかもしれないから』
紫蜘蛛の言葉に首を傾げていると、彼女の口が首元に近づく。
ゆっくりと、いつものように首筋に歯を当てられ、甘い痛みとほのかな快楽が襲い──
「……っ!?」
知らない記憶が、一気に流れ込んだ。
いや、違う。
今まで忘れていた記憶が、間欠泉のように湧き上がってくる。
知ってる記憶と知らない記憶が、絵の具のように混ざり合い、曖昧になる。
「ぁ……ぁあ……!」
混濁していく記憶に、意識が呑まれていく。
過呼吸に陥りかけていた俺の手を、紫蜘蛛が握った。
『──大丈夫。落ち着いて』
『──目を閉じて、深呼吸をして』
「……すぅ──はぁ──」
『──真っ黒な穴に飛び込むように。あなたの底へ』
『──少しだけ、眠りましょう。暁人』
紫蜘蛛の声が遠くに行く。
言われるがままに、混ざり合った記憶の渦の中へ飛び込むイメージをする。
直後、全ての音が、色が消えた。
『──おばあちゃん?どこ……?』
鬱蒼とした森の中、涙目で茂みをかき分けながら祖母を探す少年がいた。
──あれは、十年前の俺だ。
「おい、そこにばあちゃんはいないぞ。来た道を戻れ」
少年に声をかけるが、反応はない。
彼に近づいて肩に触れようとするが、すり抜けた。
「……なるほど。干渉はできないわけか」
これは、俺の記憶の追体験のようなものか。
小さくため息をつき、少年の後ろを歩く。
あちこちから視線を感じる。
それも、人の目じゃない。今となっては慣れてしまった、怪異の視線だ。
「こいつら、俺を狙ってやがる……」
この頃から怪異の脅威に晒されていたのかと、少し背筋が凍った。
「にしても、なんで襲わなかった?迷子の子供なんて、格好の餌だろうに」
相手から見えていないのをいいことに、周囲を見渡しながら考える。
よく見ると隠れる気すら感じられない野衾や山童もいた。だが、彼らは一向に動く気配がない。
彼らの様子を観察していると、背後から枝葉の揺れる音がした。
『……?』
「なんだ?」
少年と共に、音の鳴った方向を見る。
特に異変は無いように見えたが──
『おばあちゃん……?』
少年は、何故か音の方角に向けて歩き出した。
慌てて止めようとするが、やはり俺の手は少年をすり抜ける。
「おい待て!もしかしたら怪異かもしれない──」
「……?この匂い……」
ほんのわずかに、良い香りがした。
柔らかな線香の、いわゆる“おばあちゃんの匂い”とも言える香りだ。
「……いや、そんなわけないだろ。ばあちゃんがこんなところまで探しにくるとも思えない」
祖母は優しい人だ。だが、危険を承知で備えもなしに山中に入るような人でもない。
となると──
「やっぱり、怪異か……?でも紫蜘蛛の匂いはこんなのじゃなかったしな……」
考えながら、少年を追う。
相変わらず鬱蒼とした森に、少しずつ変化が起きていた。
「あれは……椿か?」
「椿ってあんなだったか……?」
森に椿の花が見えてきた。それも普通ではない生え方で。
大木の幹に一輪。枝葉の先に一輪。
俺は花はあまり詳しくないが、少なくとも椿はあんな風には咲かないことくらいは知っている。
歩を進めるたび、椿の花が増えていく。
気付けば線香のような香りは甘い椿の香りに変わり、辺り一面が真っ赤に染まるほどの花が咲き狂っていた。
「明らかに異常だよな……なんで引き返さないんだ、この頃の俺は」
少年は何かに導かれるように歩き続けていた。周囲の変化など気付いていないかのように、その先に祖母がいると信じている。
椿の壁を抜けると、開けた場所に出た。
紫蜘蛛と共に訪れた、あの社のある場所だ。
社には蔦と蜘蛛の巣が絡まり、唯一どこにも椿の花はついていなかった。
『ここは……』
「……あの社は、この時のか」
少年が社の下へと歩き出す。
俺もその後をついていき、少年の隣に座る。
『疲れた……おばあちゃん、どこ……?』
「……さっき見た時とはまるで違うな」
あちこちに見える椿の花と蜘蛛の巣。
まるで何かが争った跡のように乱れた地面には、血のような花びらが散っている。
紫蜘蛛と訪れた時に感じた神秘性は全く無く、むしろ恐怖を掻き立ててくる。
現に、隣に座る少年は目の前の光景を見て僅かに震えていた。
『どうしよう……』
『──誰?』
社の裏手から、声がした。
少年と共に振り返る。
「紫蜘蛛?」
『……誰か、いるの?』
少年が立ち上がり、恐る恐る声の聞こえた裏手を覗き込む。
『──人間?どうして、ここに……?』
「っ!紫蜘蛛!」
『えっ……!?お姉さん、大丈夫……!?』
そこには、傷だらけの紫蜘蛛がいた。
呼吸も浅く、立ち上がることもできないほどに消耗している。
少年と同時に駆け寄り、紫蜘蛛に触れる。
俺の手はすり抜けたが、少年は紫蜘蛛に触れた途端、慌てて手を離した。
『わっ……冷た……!』
『──あなた、熱いわね……生命に、溢れてる……』
少年が懸命に紫蜘蛛を仰向けにし、膝に頭を乗せる。
こんなに必死に助けようとしていたのかと、我ながら感心した。
『ねえ、お姉さん!しっかり!』
『──あなた、どうしてそんなに、私を気にするの……?』
『──名前も素性も知らない相手に、どうしてそんな顔ができるの……?』
少年の顔は、今にも泣き出しそうだった。
紫蜘蛛の紫色の瞳が、理解できないと訴えてくる。
『死んじゃいそうな人がいたら助けたいって思うのは当然でしょ!ねえ、どうしたらいいの!?』
少年の必死の問いかけに、紫蜘蛛はほんの少しだけ、口角を上げた。
『──そう、ね。食べ物を、くれないかしら?』
『食べ物……?でも僕、今なにも持ってなくて……』
困惑する少年の頭を、紫蜘蛛が両手で捉えて引き寄せる。
彼女は耳元で、一言だけ呟いた。
『──あなたの生命、くれないかしら?』




