雪女の初恋
それは、暖かな春の日の朝だった。
人に紛れて町のはずれで暮らしていた私は、いつも通りに水汲みに出かけた。
心地よい風と朝日を浴びながら井戸の水を汲んでいると、見慣れない姿を見た。
良い生地に精緻な刺繍の施された小袖。
整った顔立ちに、気品を感じる佇まい。
少なくとも、こんな時間にこんな下町の外れを歩くとは思えない裕福そうな男。
不思議そうに見ていると、彼と目が合った。
「やあ。おはようございます。良い朝ですね」
『……おはようございます。その、どちら様で?』
私の問いに、男はハッとしたような顔をした。
「ああ、名乗るのが先でしたね。僕は淡谷陽平といいます。以後、お見知りおきを」
丁寧な挨拶とお辞儀に、改めて育ちの違いを知らされる。私もまた、彼を真似て礼をした。
『雪女といいます。最近、この辺りに越してきました。よろしくお願いします』
「これはこれは、ご丁寧に。いやぁ、やはり早起きは三文の徳というだけのことはありますね。こんな美人さんと顔を合わせるとは」
陽平は、僅かにぎこちない言葉と共に、嬉しそうに頭をかきながら笑顔を見せた。
可愛らしい少年のような笑顔に、不覚にも胸が少しときめいた。
『褒めても、何も出ませんよ』
「いえいえ、そんな。そうだ、雪女さん。そのお水、一杯いただけませんか?実は少し喉が渇いていて」
『……ええ。構いませんが』
杓子で桶から水を掬い、陽平に差し出す。
彼は、一滴も溢さないようにゆっくりと飲み干した。
「……ふう。やはり、この辺りの水は美味い。ウチの井戸水もこれくらい良質なら良かったのに」
『……遠方に、住んでいらっしゃるのですか?』
「いえ。ただ、ここは山がより近いでしょう?僕の屋敷は便利のいい平地の方にありますので」
陽平は指を差しながら答える。
その方角は、藩主の住む城下町だ。
「では、僕はこれで。そろそろ戻らないと、父上に怒られてしまいます」
「また、何か縁があれば会いましょう。雪女さん」
『……ええ。お元気で』
小走りで去っていく陽平を、私はその場で見送った。
その日から、彼は毎日のようにこの辺りに現れた。
時刻は決まって朝の頃。その度に私は彼に一杯の水を分け、話をした。
彼は大名とも取引のある豪商の長男だった。
今は家督を継ぐために、仕事を覚えている最中だそうだ。
一方の私は、人知れず雪山で生まれ、一人で生きてきた雪女。
山での暮らしに疲れ、何も知らないまま人里に降りてきた怪異の女。
彼に惹かれつつも、生まれや育ちの違いを思うと、なかなか踏み込めなかった。
ある時、陽平から教えられた商売の技術で水売りを始めたところ、存外繁盛してしまった。それを聞きつけた陽平が、より売り上げの見込める場所──城下町の方へ引っ越すことを提案してくれた。
『……良いのですか?私のような得体の知れない者の手伝いをしてしまって』
「人は誰でも最初は知らない人です。それに、僕はあなたのことを知っています。少なくとも、この町の誰よりも」
陽平の提案に乗り、私は城下町の方へ引っ越した。
引っ越した直後は、陽平の家に助けられた。
水を運ぶ飛脚には、陽平の家が懇意にしている者を紹介してもらった。
陽平は私の水の評判を近所に広めたり、自ら水を買ってくれた。
陽平の弟の陽吉が、よくお使いに来てくれた。
こっそりと甘味を持たせると、兄譲りの可愛らしい笑顔を見せてくれる。それが密かな楽しみの一つだった。
引っ越した先で、新たな縁も見つかった。
私と同じ、怪異の女──氷柱女が、私と同じように人に紛れて暮らしていたのだ。
名前は凍子。彼女も陽平に想いを寄せている様子だった。
彼女は氷売りで生計を立てていた。というより、陽平の家に氷を売ることで生活していた。
凍子も私の正体にすぐ気付いた。私が陽平に抱いている想いも、見抜いていた。
『アンタ、陽平のことが好きなのかい』
『……悪いけど、あの人はアタシが先に目をつけたんだ。アンタには渡さないよ』
しばらくは、凍子ともそれなりに付き合いを持っていた。彼女にも彼女なりの矜持があり、自分の力で陽平を射止めようと努めていた。
私から買った水で氷を作り、それを陽平へ売る。氷の質が上がったと褒められた彼女は、どこか複雑な顔をしつつも喜んでいた。
私もまた、自分が売った水が陽平に褒められて嬉しかった。
ある時から、凍子の嫌がらせが始まった。
私と陽平の距離が縮まったのが、直接の原因だろう。
凍子は私から水を買わなくなり、水を運ぶ飛脚が氷柱で怪我をしたり、売り物の水が凍らされたりと、商売を邪魔された。
夏の頃はどうにか凌げたが、冬に入る頃には赤字が続くようになった。
それでも、陽平だけは私を助けてくれた。
資金の援助をしてくれたし、食べ物の差し入れもしてくれた。
私も返礼として、無事に届いた水の一部を陽平の家へ差し入れた。
そうして一年ほど凍子の嫌がらせに頭を悩ませながらも、私は懸命に暮らしていた。
その間も陽平とは何度も顔を合わせては、商売の相談や他愛のない話をしたりした。
気がつけば、私は陽平から離れられなくなっていた。
そんな冬の日の朝、事件が起きた。
青ざめた様子で陽平が私の家に飛び込んできた。
「雪女さん!早朝にすみません!」
『よっ……陽平さん……!?』
「弟が、弟が怪我を!人手が欲しい!手伝っていただけませんか!?」
すぐに身なりを整えて、陽平のあとについていく。初めて、彼の屋敷の門をくぐった。
案内された部屋には、顔面蒼白の陽吉がいた。
肩の辺りに布があてられ、その布も真っ赤に染まっている。側には何枚も同じような布が水桶に浸けられていた。
『陽平さん!医者は呼んだんですか!?』
「もうすぐ来てくれる!それまで陽吉の命を繋ぎ止めないと!」
陽吉の傷口を塞ぐ布を外す。
何かが刺さったような、深い傷跡。
傷口に僅かながら残った霜と凍結の跡を見て、この傷は凍子の作った氷柱によるものだと、私はすぐに悟った。
傷口から血が溢れてくる。失血もひどい。このままだと、医者が来るまで保たない。
私は、意を決した。
布で傷口を押さえながら、陽平を見る。
『……陽平さん。このままでは、医者が来る前に、陽吉くんは……』
「……っ!どうにかできないか!陽吉は大切な弟なんだ!」
『一つだけ、方法はあります。ですが、約束してほしいのです』
『──これから起きることは、絶対に誰にも言わないでください』
傷口を押さえる布を外し、優しく息を吹きかける。
溢れる血液は瞬く間に凍り、傷口を塞いだ。
「なっ……雪女さん……今、何を……?」
『見ての通り、血を凍らせて傷を一時的に塞ぎました』
『……黙っていてごめんなさい。私は、人ならざる者なのです。私は雪女。元来、人里にいてはいけない存在なのです』
驚く様子の陽平を見て、胸が締め付けられた。
きっと彼は、私を恐れただろう。
『……あとは、医者の領分です。私はこれで……』
「待ってくれ雪女さん!」
立ち去ろうとする私の手を、陽平が掴んだ。
「もう少し、陽吉の目が覚めるまで、ここにいてはくれませんか?」
「陽吉はあなたに懐いています。あなたの顔を見れば、あなたに助けられたと知れば、きっと喜びます」
『……陽平さん……』
彼の言葉に甘えて、私はその場に残った。
陽吉の身体が冷えすぎないよう布団をかけ直したり、火鉢を置いたりと忙しなく働いた。
程なくして医者が来て、陽吉は一命を取り留めた。しばらくは介抱が必要だが、いずれ元通りになるとのことだった。
「ありがとうございます。雪女お姉さん」
『……よく頑張りました。陽吉くん』
陽平と陽吉の笑顔を見て、初めて歓喜の念で身体が震えた。生まれて良かったと、心の底から思えた。
陽吉が歩けるようになるまで、彼の介抱を名目にしばらく陽平の家に世話になった。
台所に立ったり、家事手伝いをしたり。
陽吉がうなされている夜は、子守唄を歌ったりもした。
気がつけば、私は陽平の家族同然に受け入れられていた。
ある日の晩、私はついに一世一代の決意を固めた。
陽平を縁側に呼び出し、茶と軽いお菓子を用意した。
「どうしたんだい、雪女さん。こんな時間に」
『すみません、夜分遅くに。実は、話したいことがあって』
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
『……私は、本当の私を恐れない人を初めて見ました。雪を降らせ、吹雪をも起こす雪女を恐れない人を』
『陽平さん。あなたは、私を見てくれました。雪女としてではなく、一人の女として』
『そんなあなたに、私は惹かれてしまったのです。きっと初めて井戸水を分けた、あの日から』
『陽平さん。人ならざる私ではありますが……これからも、あなたの側に置いてはいただけませんか?』
緊張で声が震える。声だけじゃなく、指先も小さく震えていた。
陽平は、泣きそうな優しい笑顔を見せて、私を抱きしめてくれた。
「当然です。あなたは今や淡谷家に……いえ、僕にとって不可欠な存在です」
「実を言うと……僕も一目惚れだったんです。あの日、井戸水を汲む雪女さんに見惚れた時から、あなたのことが頭から離れなかった」
『……だから、あの日から毎日井戸水を飲みに来ていたのですね』
目に涙を浮かべながら、クスリと笑う。
陽平も、恥ずかしそうに笑っていた。
その日は静かな雪の降る夜だった。
私は、人生で一番熱い夜を迎えた。




