喰われた男
「……クソッ!イライラする!」
悪態をつきながら、猪狩が街を歩く。
今日もなにも上手くいかなかった。
せっかく小雪の家族を連れ去ったのに、取り返された。
小雪と話せたかと思えば、邪魔が入った。
いきなり出てきた海月女は、あの蜘蛛男がいないと分かると、俺を見ることもなく消えていった。結局、なんの役にも立たなかった。
身体の調子も、少しおかしい。
まるで風邪を引いたように、悪寒が止まらない。力が入らない。それと、心なしか痩せた気がする。
凍子の力を使うほど、身体がおかしくなっていることを嫌でも意識させられる。
自分の思い通りに身体も能力を使えないことが、猪狩の苛立ちに拍車をかけていた。
「次はどうする。どうすれば、俺は小雪を取り戻せる……!」
ブツブツと思考を口に出しながら、寝床のある高架下を目指して小道を進む。
途中、誰かと肩がぶつかった。
「おいお前!どこに目つけて歩いてんだ!」
「……あ?」
金髪の男が肩に掴みかかってきた。いつも通りに凄むが、声に張りがない。男は怯むことなく踏み込んできた。
「テメェ、ぶつかって来といてなんだその態度!死にてえか!」
「チッ……うるせえな、今機嫌悪いんだよ。痛い目見たくなかったらとっとと失せろ、ザコ」
金髪の男を睨みつけ、その場を後にしようとする。機嫌が悪いのは事実だが、妙に身体が怠いのも手伝って、普段なら買う喧嘩すら買う気になれなかった。
だが、向こうはそうもいかなかった。
前を向いた直後、後頭部を鈍い痛みが襲った。
「がっ……!?」
「舐めたマネしてんじゃねえよクソガキ!謝れっつってんだ!」
不意打ちに思わず倒れ込み、そのまま腹に何発か蹴りを入れられる。
普段自分がやっている暴力を、抵抗も出来ずに受け続ける。痛みに思考が停止する。
「謝れ!謝れ!慰謝料よこせ!」
頭を踏みつけられ、ズボンのポッケを漁られた。男は落胆した様子で、大きなため息を吐いた。
「はぁ?なんだ、文無しかよ。ゴミだなお前」
「なあお前、キャッシュカードくらいあんだろ?番号教えろよ。クレカあんならそっちもだ」
髪の毛を掴まれて、無理やり起こされる。
鼻血で呼吸もままならなかった。
「……うる、せえな……」
「万全なら、テメェみたいなチンピラ、瞬殺なんだよ……」
「ハッ!その威勢いつまで保つかなァ!」
男が頭を思い切り地面に叩きつける。
鼻の奥で、嫌な音がした。
脳が揺れて、白目を剥く。意識が朦朧としていく。
《ちょっとリョースケ、やられっぱなしで良いのかい?》
「……凍、子」
凍子の声が脳に染み込んでくる。
不思議と、身体に力が戻ってきた。
《死んだら何もかも終わりなんだよ!アンタはそれでいいのかい!?》
「……そう、だ。俺は、小雪と……」
途切れかけた意識を繋ぎ止める。
内側から湧き起こる衝動に従うように、氷を纏いながら立ち上がる。
金髪の男は、満足したのか財布を持ったまま背中を向けていた。
「……あん?なんだ、まだ起きれる──」
「……死ね」
言葉と同時に、手が鮮血に染まる。
男の背中にも、同じ色の染みが瞬く間に広がっていく。
猪狩の手には、氷で作られた刃物が握られていた。
「なっ……はっ……!?」
《そうさ、アンタはまだ死んじゃいけない》
《命の危険が迫ってるなら──》
《その危険、取り除かないとねぇ?》
「──!!」
無言で刃物を男へ振り下ろす。
何度も。何度も。
どれだけ振り下ろしたか、自分でも分からない。
気がつけば、男は動かなくなっていた。
一面の血の海と無惨な姿に変わり果てた男を見て、ようやく自分が何をしたのかを理解した。
「はあっ!はあっ……!」
「……や、やっちまった……」
真っ白になっていた頭が、元に戻っていく。
経験したことのない濃い血の匂い。目の前の惨状。
べったりと全身に飛び散った、真っ赤な血。
《ああ。でもリョースケは悪くない》
《悪いのはアンタに暴力を振るったそこの男さ》
凍子の声が、思考を染めてくる。
一線を超えてしまった焦りと罪悪感が、凍りついて消えていく。
「は、はは……!」
「そう、そうだ!俺は悪くない!先に殴ってきたコイツが悪いんだ!」
《うんうん、いつものリョースケらしくなったじゃないか》
《でも流石に疲れたろう?今日はもう寝床に戻るさね》
フラフラとした足取りで再び高架下を目指す。
身体に付いた血は、全て凍って砕け散った。
「──ん?あれ、寝ちまってたか」
身体の違和感に、目が覚める。
確か、寝床に戻ってから、飯を食って、凍子の求めに応じて──その先の記憶がない。
『おっと。起きちゃったかい、リョースケ』
「っ!凍子……!?」
目の前の凍子は、何も着ていなかった。
かくいう俺もまた、同じ格好だった。
場所もあの高架下ではなく、凍子と出会ったあの凍りついた廃墟だった。
「な、なんだよこれ……凍子!何したんだ!」
『んー?何って、見れば分かるだろう?』
凍子はニヤニヤしながら答えた。
『アンタから生気を分けて貰ってたのさ』
『心身の相性が良すぎたからか、ついやりすぎちゃったみたいだけどねぇ?』
凍子が抱きつき、口を塞いできた。
貪るような口付けと共に、身体の芯のようなものが吸い取られていくのを感じる。
脳が蕩け、思考がまとまらなくなる。快楽に流されていく。
ぼやけた頭で、改めて自分と凍子を見る。
──身体がひどく痩せ細っている。骨と皮だけになっていて、力が一切入らない。
凍子の方は、初めて会った時よりも肌艶が増している。氷で作られていた左腕は、本来あるべき肉のついた腕へと変化していた。
「凍、子……どうして……」
『アタシとアンタは、よく似てたからさ』
『人の営みに馴染めず罪を犯し、恋に恋して罪を重ね、恋破れたら自棄になって、また罪を犯す』
『アンタは昔のアタシを見てるようだったよ。だからあの家に誘ったのさ』
『でも、一つだけ違うところがあった。アンタはまだ、一線を超えてなかったんだ』
凍子の笑みが、恍惚としたものから悪意を持ったものへと変わっていく。
『だからさっき、アイツを排除するよう唆したのさ。そしてアンタはまんまと乗ってくれた』
『アタシとアンタはまた近づいた。心身はより深く馴染んで、より多くの生気を吸えるようになった。それが今さ』
凍子の口から明かされる真実に、猪狩は泣くことしかできなかった。その涙すら、冷気にあてられ凍っていく。
『あっはは。アンタ、やっぱり泣き虫だねぇ。そんなところが可愛いんだけど』
『でも、もう自分の意思で動くことはできないねぇ、これじゃ』
『だから──アンタの身体、アタシが借りるよ』
「お前……初めから、それが目的で……俺を……」
震える声で、凍子に問う。彼女の表情は、変わらなかった。
『そこはお互い様さね。ただ、アタシの方が一枚上手だった。それだけさ』
『でもリョースケも本望だろう?思うままに暴力を振るい、至福の快楽の中で眠りにつく。男にとってこれほど幸せなことはないはずさ』
「ふざ、けるな……!」
もう呂律も回らない。言葉を紡ぐことも、拳を握ることもできない。
瞼が錘のように重い。目を開けていられない。
『さあ、おやすみリョースケ。大丈夫。アンタの願いも、アタシがちゃんと叶えてあげるさね』
『──アンタの望む形かは、分からないけどね』
──朝焼けが差し込む高架下。
そこに猪狩の姿はなく。
一人の氷柱女が、大きく伸びをしていた。




