束の間の平穏と、暗闇の不穏
「やあおかえり。遅かったね」
書店に戻ると、加古川さんがコーヒーを淹れていた。
狐火は正座し、静かに湯呑みを傾けている。
火那森先輩は、そわそわと部屋の中を歩き回っていた。
「八重原くん!良かった、無事で!」
先輩がこちらに気付き、小走りで駆け寄ってくる。
『ほら言ったでしょ?何事もないって』
狐火が呆れ混じりに口を開く。
その頬は、少し緩んでいた。
「紫蜘蛛のおかげですよ」
『──』
素直にそう伝える。
紫蜘蛛から、わずかに照れが滲む。
『へえ?その子そんなに出来る子だったんだ』
『──当然』
加古川さんの元へ向かう紫蜘蛛が、短く返す。
『──カステラは、ある?』
「おや、紫蜘蛛くんは甘味を所望かい?もちろんあるよ」
加古川さんがカップにコーヒーを注いで、冷蔵庫に向かう。
「紫蜘蛛ちゃん、この時間に甘いものは……」
『──怪異は、太らない』
先輩の心配をバッサリと切る。
先輩は少し困ったような顔をしていた。
「そうだ、先輩と加古川さんに相談があるんです」
「おや、何かあったのかい?」
戻る前に遭遇した怪異。
既読虫とは次元が違う──海月と名乗る女について、一通り話した。
「うーん……特徴だけ見ると、おそらく"磯姫"だと思うんだけどねぇ」
腰と顎に手を当てて、加古川さんが唸る。
「でも、磯姫は水辺にしか現れないはず」
火那森先輩も同じような反応だ。
磯姫。
怪異に疎い俺には、初耳の存在だ。
『磯姫は、主に海辺に現れる怪異のことさ』
俺の様子を見て、狐火が口を開く。
『海辺に近付く男に接触して、髪の毛を使って血を啜る。あるいは叫びで鼓膜を破る』
『だが、本来こんな陸地までは来れないはずだし、磯姫にしてはあまりにも強すぎる』
湯呑みを傾けながら、二人の持つ引っ掛かりまで教えてくれた。
『──別の力を、感じた』
カステラを頬張りながら、紫蜘蛛が呟く。
「どういうことだい?」
『──水の中に、黒い何かを感じた』
『──まるで、闇そのものだった』
その言葉と共に、わずかに空気が重くなる。
誰も、すぐに口は開かなかった。
「何らかの影響で強化されている……?いや、それにしては余りにも……」
加古川さんが真剣な顔で考え込む。
そして。
「……うん、分からんね。私はこれから調べ物をするから、二人は帰って休むといい」
加古川さんがどこからか鍵を取り出し、そのまま歩き出す。
「ああ、皿とカップはそこの流しに置いておいていいよ。後で洗っておくから」
「それじゃ、怪異の情報が入ったら連絡するよ。夜道には気をつけて」
──急ぎ足で、扉の向こうに消えた。
『じゃ、僕らも帰ろうか主』
「ええ、洗い物を済ませてからね」
先輩が流し台に向かう。
「俺も手伝います」
「八重原くんはもう寝なさい。色々あって疲れてるでしょ」
先輩に、片手で制される。
先輩も、疲れてるはずなのに──
『──帰って、寝るべき』
『──暁人、傷だらけ』
紫蜘蛛に服を引かれる。
「──次は、俺が食器洗いますから」
「ええ、よろしくね」
先輩は手を振って見送ってくれた。
〜〜〜〜〜〜
『あぁ─美味しかったわ、彼の血』
暗闇の中、海月はひとり呟く。
彼─八重原暁人を反芻する。
笑う顔。
怒る顔。
恐れる顔。
──彼の血の味。
今まで色々な男の血を味わったけど、彼は格別。
──欲しい。
顔も、血も──すべて。
──あの蜘蛛女に向けている感情も、全部。
『アッハハ!楽しそうじゃない海月!』
暗闇の向こうから声がする。
『──なぁに。どうしたの、ハミィ』
声の方へ目を向ける。
邪魔するな、と視線に圧を乗せる。
『あら、そんな睨まなくてもいいじゃない。アタシとアナタの仲でしょう?』
黒と桃色の洋装。
金髪、碧眼。
「ゴスロリ」と言うらしいが、正直良さは分からない。
『アナタ、現世に行ったんでしょ?どうだった?楽しかった?』
『──あまり質問されても、困るのだけど』
小さく首を振る。
『でも──楽しかったわ、とても』
口元が緩む。
彼との出会いは特に。
『うわぁ。アナタ今、すごい顔してるわよ。鏡いる?』
ハミィの声が低くなる。
いらないわ、と口を開く直前。
──熱を持った雪が散ってきた。
空気が沈む。
『戻ったか──磯姫よ』
低く、冷たい声。
パキ、パキ、と氷を踏む音がする。
『ちょっと、それ以上近づかないでくれる?風邪引いちゃうんだけど?』
ハミィが身体を震わせ、不機嫌そうに口を開く。
『我らは風邪などとは無縁だろう、獏。第一、寒いなら袷羽織でも纏えばいい』
『引かせる側のアンタがそれ言う!?あと獏じゃなくてハミィ!』
猫のように威嚇するハミィ。
『……あなた達も一緒なんて、珍しいわね。凍景、阿用』
雪風が舞い上がり、その中に影が立つ。
後ろには、巨大な"熱気"が揺らめいていた。
『同胞の帰還だ。出迎えるのが、礼儀というものだろう』
《オォ──》
二つの影から声が響く。
姿は見えないが、歓迎されている。
『ハイハイ。暑かったり寒かったり、ホントに身体ブッ壊れちゃうから野郎二人は、とっとと帰った帰った!』
パンパンと手を叩きながらハミィが促す。
《キラワレテル──?》
『気にしないで、阿用。元々ああいう子よ』
悲哀の声に、やわらかく返す。
『ふむ、致し方なし。機会があれば茶でも飲もう。磯姫』
『えぇ──それと、私は海月よ』
寒気と熱気が消える。
『ハァーーやーっと消えた!片方だけならまだしも、二人同時に来る事ないじゃない!』
大きく息を吐き、ハミィが脱力する。
『……ふふ』
現世も楽しかったけど、こっちも悪くない。
特に、ハミィと一緒だと退屈しない。
──でも。
やっぱり、彼の事が頭から離れない。
『……ふぅん?アナタ、向こうで男できたんだ』
ハミィが顔を覗き込む。
『──いいえ、"まだ"よ』
そう、まだ。
──あの女を排除しないと、彼を手に入れられない。
『──ふぅん?そう?』
ハミィの顔が、歪む。
『じゃあ──海月の欲しがってるその男、アタシが全部、奪っちゃおうかしら?』
『──』
そうだ。
この子は、そういう子だった。
『それは──』
『そうと決まれば早速アタシも現世に行くわ!ついでに新しい服とお菓子を堪能するわよ!』
言い終わる前に、ハミィは闇の中に消えた。
『──はあ。少し休んだら、様子を見に行かなくちゃいけないわね』
彼の事を反芻しながら、横になる。
──今日は、きっと良い夢が見られる。
彼の、夢を。




