水を従える女と、沈む俺
──通知音が鳴る。
反射的に身構え─すぐに自分のスマホである事に気づく。
「もしもし」
『八重原くん!良かった、出てくれた!』
火那森先輩だ。
張り詰めていたものが緩むような声。
『そっちは無事?』
「はい、どうにか」
『良かった…じゃあ、今昔堂で合流しましょう』
「分かりました。また後で」
通話を切る。
短いやり取りだったが─十分だ。
安堵しかけた、その時。
『──あの子、だったのね』
視線。
紫蜘蛛だ。
「ああ。だからその糸は外していいぞ」
スマホに細い糸が繋がれている。
盗み聞きとは、感心しないな。
『──念の為』
「怪異に電子機器は使えないだろ?」
「──分からない。使えるのも、いるかもしれない」
そんな馬鹿な。
言いかけて、飲み込む。
──既読虫。
あれも、"人間の仕組み"に寄生していた。
「まあ…否定は出来ないか」
意外と、怪異も"今"に適応しているのかもしれない。
『──早く、帰りましょう』
気付けば、紫蜘蛛が一歩先に立っていた。
『──お腹が空いた。カステラが、食べたい』
「…この時間にか…?」
太るぞ、とは言わなかった。
ろくな目に遭わないことは、火を見るより明らかだ。
紫蜘蛛と並んで帰ろうとした時。
──強烈な違和感が襲った。
足裏に、水を踏み抜くような感触。
足元を見る。
水は無い。
だが─沈んでいる。
脛まで、確かに。
じわりと、遅れて現実に染み出してくるような。
未知の感覚に動揺する。
「あぁ─もう少し近くで観たかったのに」
暗がりから声。
聞こえた瞬間──
世界が、水底に沈んだ。
光が消える。
音が消える。
地面の感覚が消える。
空気を求めて肺が軋む。
もがく。
もがく。
沈む。
落ちる。
──死ぬ。
《──暁人!》
飛びかけた意識が戻る。
気付けば装束を纏っていた。
「へぇ……便利なものね、その糸」
"それ"が、すぐそこにいた。
──人だ。
だが、明らかに"人間"ではない。
透けるような白。
吸い込まれそうな黒い瞳。
揺れる白髪は、クラゲの触手のように蠢いている。
──おかしい。
視界と、声の距離が噛み合わない。
一歩、踏み出される。
──"圧"が増す。
引きずり込まれる。
距離ではなく"存在そのもの"が近付いてくるような感覚。
《──暁人に、近づくな》
紫蜘蛛が、明確に敵意を向ける。
あの既読虫にすら"無関心"だった彼女が。
──"警戒している"。
「あら─思ったよりも、やるみたいね?」
女が、唇に指を当てて笑う。
「でも─貴女じゃ無理よ」
《──!》
「──!?」
身体が勝手に動く。
爪を立てて飛び出す。
──完全に操られている。
止められない。
「待て紫蜘蛛──!」
言葉は届かない。
そのまま女に振り下ろし──
すり抜ける。
水を叩いたような手応えだけ。
女は確かに、そこに"いる"のに。
「あぁ─やっぱり、とても興味深いわ」
恍惚とした声。
「そんな危ない子と繋がりながら、自分を保っていられるなんて」
右後方から声。
振り向くより先に、腕を振る。
──掴まれる。
"水圧"で。
「っ!?」
「それに─恐怖はあれど、嫌悪はない」
左後方。
今度は反応すら間に合わない。
「身体を操られているのに、"その子"の心配をしてる」
「…っ」
耳元。
距離が、消える。
吐息。
「貴方なら─私の事も、受け入れてくれそう」
《──やめて》
紫蜘蛛の声音が変わる。
鋭く、冷たい。
殺意。
「私ね、貴方みたいに"理解"をやめない人が好きなの」
──身体が軋む。
「紫蜘蛛…落ち着け…!」
今暴れられたら──壊れる。
「決めた─」
女が微笑む。
「貴方のこと、堕としてみせるわ」
首筋に、針を差し込まれるような感触。
──圧が、消える。
反動。
弾丸の如く身体が飛び出す。
だが、届かない。
女は、もういない。
《私は海月─》
《貴方を堕とす、女の名前よ》
声だけが、残る。
水の感覚も消えた。
静寂の中、自分の呼吸だけが響く。
「……行った、か」
《────》
装束が解かれ、紫蜘蛛が現れる。
少しだけ、乱暴に。
『──暁人』
「……なんだ?」
紫蜘蛛の方を向くのが、少し怖い。
『──あなたのことは、誰にも渡さない』
『──絶対に』
その声は、守るものではなく。
絡め取るものに近かった。
──ふと、思い出す。
夢の中の光景。
蜘蛛の巣に絡め取られた蝶。
──逃げ場など、最初から無かった。




