恋は盲目
『良いなーアキっち!目の前でセンセーの仕事見れたんでしょー!』
「そうは言うが、正直余裕なんてなかったよ」
今昔堂に戻り、全員で祝杯をあげていると、白來が口を尖らせた。
俺と水島さんが筆鬼と五頭龍の相手をしている間、火那森先輩やいぶきさんたちは街で墨獣たちの対応に当たっていた。
筆鬼の消滅と共に、墨獣たちも溶けて水に変わったそうだ。
『それにしても、もしもあの墨のまま残ってたら後始末が大変だったねぇ』
「もしそうなっていたら、一度街全体を洗い流さなくてはいけなかったところです」
狐火の言葉に、いぶきさんが冗談めかして波のジェスチャーをする。
……この人の場合、その気になれば本当にできそうなのが恐ろしい。
「でも、本当に派手にやってくれたわね。ネットで話題になってるわ」
『餓鬼大将の時点で怪異の存在は公開されたようなものですが……このまま鎮火してくれるといいのですが』
「まあ、その辺は心配しなくてもいいと思うよ。今のご時世、現実離れしたものは出来の良いフェイクとしてあしらわれがちだしね」
スマホを片手に心配そうな顔をする火那森先輩と墨香を、加古川さんがコーヒーを飲みながら静かに落ち着かせる。
餓鬼大将を倒した例の暴露配信も、結局正体不明のアンチがぶち上げたフェイク動画として処理された。加古川さんの言う通り、案外そんなものなのかもしれない。
「……水島さんは、これからどうするんですか?ロッ子たちはもう──」
「問題ないよ。ちゃんと完結させるから」
「……僕はやっぱり漫画家だよ。ヒーロー業は今回限りだ」
水島さんが優しい口調で俺の言葉を遮るように返す。
エマも微笑みながらゆっくり頷く。
彼女の身体は、半分透けていた。近未来的なスーツは白装束に変わり、虹色の瞳は艶を失い、どこかくすんでいるように見えた。
まるで、誰もが思い描く幽霊そのものだ。
『私もしばラクは普通の幽霊に逆戻りデスから』
『それニ、マスターを危険な目に遭わせるノハ、本意ではありまセン』
エマがお菓子に手を伸ばすが、そのまますり抜けた。クスクスと笑いながら、何度もすり抜けさせて遊んでいる。
「それに、描きたいものがたくさんできたんだ。漫画だけじゃなく、イラストとかもね」
「暁人くんのおかげだよ。君があの子たちを褒めてくれたから、もう少し手を広げてみようって思えたんだ」
「ありがとう、暁人くん」
水島さんが俺と紫蜘蛛を見つめた。前向きな輝きを持った綺麗な瞳だった。
「お礼を言うのは俺もです。水島さんたちがいなかったら、五頭龍に食われてたかもしれなかったですから」
『──あなたたちの力、見ていて楽しかったし、頼もしかったわ』
紫蜘蛛も柔らかな笑顔を浮かべた。そういえば、紫蜘蛛は自分の目で世界を見るのが初めてだったか──
脳裏に、風景がノイズ混じりに浮かぶ。
夕暮れの森。蜘蛛の巣のかかった、寂れた小さな社。
紫蜘蛛によく似た少女が、一人。
『──暁人、どうしたの?』
紫蜘蛛の吸い込まれそうな紫の瞳が覗き込んでくる。心配そうな、しかしどこか何かを待つような瞳だった。
「……いや、なんでもない。ちょっと今回の戦いを振り返ってただけだ」
──きっと、気のせいだろう。
そうでなければ、紫蜘蛛のような少女を忘れるはずがないのだから。
『──そういえば』
『?どうしまシタ?紫蜘蛛サン?』
紫蜘蛛の視線がエマに移る。エマはキョトンとした顔で小首を傾げた。
『──実は、まだ納得いってないことがあるの』
『──どうして、私は目を隠さなくても平気になったの?』
『──墨香たちは例外として、あなたも見えているのに人を襲わない』
『ああ。それハ──』
紫蜘蛛の疑問に、エマは意味ありげにクスリと笑った。同じように首を傾げた紫蜘蛛の耳元に、ふわふわと近づく。
『──“恋は盲目”、デスよ』
ポソポソと、紫蜘蛛の耳元で呟く。
紫蜘蛛は硬直し、頬を赤らめた。
和やかな空気の中、笑い声が飛び交う。
俺と紫蜘蛛はその空気を楽しみながら、周りに気付かれないように、そっと指を絡めた。
『……全く、筆鬼め。あれ程言い聞かせたというのに、飛び出してしまったばかりに……』
暗闇の中、阿用がブツブツと呟きながら歩き回る。
彼とその周辺は、熱気で歪んで見えた。
『随分目を掛けていたのね、阿用。同じ“造る者”として何か感じるものがあったのかしら?』
『というかあなた、そんな流暢に話せたのね』
同じ空間に、もう一人。ベッドに腰掛けた女がいた。
血のように赤い彼岸花の模様の、黒い着物。
踵まで伸びた触手のような髪は、蒼白い部分と赤黒い部分が混ざり合っていた。
『以前会った時は寝起きだったからな。平時であればこんなものだ』
『それより、お前の方こそ随分変わったな、“海月”。どういう心境の変化だ』
『あら、そうかしら?私は前からこんな感じよ?』
確かめるように、海月と呼ばれた女が自分の指や着物を眺める。
阿用はそんな彼女を、どこか憐れむような目で見ていた。
『それで?どうするの?筆鬼の仇、討ちにいくの?』
指先の爪を見ながら、海月が問う。阿用の返答自体には興味がなさそうな様子だった。
『……仇討ちほど不毛なものはない。そんなことを言い始めれば、俺は全ての人間を殺さねばならん』
『だが、筆鬼を倒したあの人間たちは別だ。彼奴らは悪五郎様の障害になり得る』
阿用の隻眼に炎のような光が灯り、髪の毛先が赤く色付き、揺らめき出す。熱気が勢いを増し、海月の白い肌にうっすらと汗が滲み出す。
『ねぇ阿用。やる気があるのは良いことだけれど、ここでは控えてほしいわ。私、あまり汗はかきたくないの』
『……む。そうか、お前は水を失うのは良くないのだったな』
阿用の熱気が鎮まっていく。空間の揺らぎはなくなり、吹いてもいない冷風を感じる。
『俺はこれから鍛冶場に入る。奴らを狩るための刀を打つ』
『海月。お前はどうする?』
『……そうねぇ』
『私は、少し外に行こうかしら。なんだか心が渇いてるの』
海月がゆっくりとベッドから立ち上がる。
フラフラとした足取りで暗闇の中に消えていく姿を見た阿用は、また少し哀しそうな目をしていた。
『……止めるべきだったか』
『いや、それは悪五郎様の意に反するか』
『だが……見ていられんな。あの虚な在り方は』
ブツブツと呟きながら、阿用もまた暗闇へと消えていった。




